【講談社】
『猫舌男爵』

皆川博子著 



 猫舌といえば、私などはすぐ「熱いものを食べるのが苦手なこと、あるいはその人」というふうに解釈するし、日本語に慣れ親しんでいる方であれば、それがあたり前の慣用句であって、今さら疑問をもつことすらないのが普通である。だが、いったんその常識の――いや、私たちがただ常識だと思い込んでいる考えのフィルターを取り払って、あらためて「猫舌」という言葉に目を向けたとき、そこには「猫」という動物と、「舌」という体の一部を示す言葉の複合体があるだけで、どこにも「熱いものを食べるのが苦手」という意味は存在しない。

 もちろん、こうした言葉の特別な使い方は日本語に限ったことではなく、たとえば英語にしても数多くの慣用句や、ひとつの単語の中にいくつもの意味を含むような場合はいくらでもあるし、それがその言葉をもちいる国の文化や歴史といった背景を示しているわけであるが、そうした事情を知らないままに、たとえば「trick or treat」という決まり文句を直訳してしまうと、本来の意味から大きくかけ離れたものへと変化してしまう。翻訳という作業の難しさは、ただたんに両方の国の言葉を知っている、というだけでは成立しないことであり、そうした間違いは翻訳者としてはできるだけ避けるべきことではあるが、逆にいえば、翻訳としてではなく、ひとつの創作活動としてとらえるなら、そうした誤訳の積み重ねが、これまで私たちが知らなかったもうひとつの世界を垣間見せる手段として機能する可能性もある、ということだとも言える。

 猫舌男爵は、男である。ばろねすではないのである。猫の舌はちーず卸しなどよりはるかに鋭く尖ったざらつきがある。男爵は、舌に刺を持つ怪異な人物なのであろうか。
 男爵は、気に入った少女を攫い、監禁し、夜な夜な、刺のある猫舌で、少女の足の裏を舐めるのであろうか。

(『猫舌男爵』より)

 皆川博子の作品は、『死の泉』にしろ『骨笛』にしろ、私たちがよく知っている世界をまったく異なった視点から捉えることで、まるで幻想世界のように、どこか奇妙で耽美な世界観を構築していくものが多いのだが、本書『猫舌男爵』は、とくにそうした性質の強い五つの短編が収められている。

 表題作でもある『猫舌男爵』では、じつはその小説内にも同様のタイトルの小説が出てくるのだが、その「猫舌男爵」を自国語(おそらくロシア語)に訳した、とある日本かぶれの学生の「訳者あとがき」から物語がはじまっているという、異例の作品でもある。ただ、この「訳者あとがき」を読んでみると、自分が訳した本の内容などそっちのけで、ただ連想のおもむくままに近況報告やエッセイめいた文章ばかり書き綴られており、いっこうに「猫舌男爵」がどんな小説なのかが見えてこない。しかも、このヤン・ジェロムスキという学生、どうも同じ日本の作家である山田風太郎の「忍法帖」シリーズに触発されて日本に興味をもったらしく、日本のことについてかなり偏った知識しかもっていないばかりか、じつは日本語の読解能力についてもそうとうにお粗末なものでしかないことが、徐々にあきらかになっていく。しかも、彼が書いた「訳者あとがき」の一部が、彼の関係者たちに思わぬ影響をおよぼしていく様子が、その後の書簡やメールの内容からうかがえるような仕組みになっている。

 この作品の中心にあるのは、間違いなく『猫舌男爵』という小説である。だが、物語はけっしてその中心に到達することなく、代わりにその周囲を歪んだフィルターで覆い隠し、そこに映し出された歪んだ像を、ただ丹念に描写していく。その結果、中心と周辺において、その主従が逆転するという現象が起こる。これこそが著者の描く作品の本質であり、またそれこそが幻想小説の大きな魅力のひとつでもある。極端なことを言えば、その中心には、もしかしたら何もないのかもしれないのだ。そしてその「何もないのかもしれない」という、得体の知れない不安感が、よりいっそう物語の幻想性を増していく役割を果たす。

 たとえ中心が空白であっても、物語として立派に成立する物語――こうした物語の傾向は、他の作品でも顕著だ。たとえば『睡蓮』は、『猫舌男爵』と同じく、書簡や日記、記事といったものを提示することによってのみで成り立っている作品である。こうした間接的な情報は、物事の真実を遠ざけるひとつの方法であるが、ここではさらに、それらの情報を年代の昇順ではなく、降順で並べていくことによって、まるで時間を遡っていくかのような感覚を読者にあたえるのと同時に、そうすることで少しずつ物語がつながっていくような構造となっている。だが、たとえ物語が終わったとしても、すべての謎が満足のいく形で明かされることはない。精神病院に三十年以上も閉じ込められて死んだひとりの老婆の過去――私たちが知ることができるのは、わずかにその片鱗のみなのである。それは「わたし」の一人称で語られる、おそらく未来を舞台にしているのであろう『水葬楽』や、ある少年の思いがけない転機を描いた『オムレツ少年の儀式』、そして第二次大戦中を舞台に、まるで現実と仮想世界を行き来するかのように物語が展開していく『太陽馬』にしても同様である。

 本書に収められた短編は、いずれも最後の数行で読者をあっと思わせる小さなオチがつく場合が多く、それゆえに、本書をミステリーの一種と考えてもいいのかもしれなが、何度も言うように、本書の本質は、まさに中心の不在という不安定な状態が生み出す幻想である。そしてそうした幻想は、たとえば「猫舌」という言葉そのもののなかに「熱いものを食べるのが苦手」という意味など存在しないのと同様、案外身近なところに転がっているものなのかもしれない。そんなちょっとした不安感を読者にかきたてることに、本書はたしかに成功したと言っていいのだろう。(2005.01.22)

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