【新潮社】
『ねじまき鳥クロニクル』

村上春樹著 



 この世の出来事のすべてが、ある種の物語のように単純で明瞭であったなら、私たちも生きていくことにこれほど苦労しなくてもいいのかもしれない、とふと思うことがある。どんなに複雑な謎や事件もすべてが明らかになり、陰謀は阻止され、正直で誠実な人間は最後には救われ、嘘吐きで不実な人間は最後には罰される、きちんとした始まりと終わりの存在する世界――しかし、物事はけっして単純でも明瞭でもないし、多くの人間が善であると同時に悪であり、そして正しい答えなどどこにも存在しないし、始まりも終わりも明確ではない、それが、私たちの生きる現実の世界の姿だ。

 たとえば、それまでとても仲睦まじく暮らしているように見えた一組の夫婦が突如離婚したとする。いったい何が原因でふたりは別れることになったのか、人々はいろいろと憶測をめぐらせ、なんらかの言葉で説明をつけようとするだろう。たとえ、それが週刊誌や新聞といったメディアからの借り物の表現であっても、彼らはいっこうにかまわないのだ。なぜなら、「不倫」とか「意見の相違」とか「姑との確執」とかいった言葉で表現することで、物事は単純化され、表面上は明らかなものとなるからである。だが、そのふたりのあいだにどのような経緯なり事情なり行き違いや誤解なりがあって、離婚という結果にいたったのかは、その当事者であるふたりにしかわからない。いや、あるいは当のふたりでさえ、きちんとした言葉で説明することができないような、複雑な何かがあったのかもしれない。

 これは一連の刑事事件についても言えることだ。ある凶悪な犯罪が起こるたびに、警察やマスコミが躍起になって知りたがる犯人の犯行に到る動機――だが、あるひとりの人間が犯罪者となった原因など、誰が正確に知り得るだろう。警察もマスコミも、それまでの過去から似たようなケースを引っ張り出し、適当な表現をつけ、それでとりあえず納得しているにすぎないのだ。あるいはこう言い替えることもできるだろう。犯罪の動機を巡って過去に遡れば遡るほど、そこに見ることができるのは、およそどんな人間も凶悪な犯罪者となりうるという、名状しがたい複雑で得体の知れない「何か」だけである、と。

 あるいは世界というのは、回転扉みたいにただそこをくるくるとまわるだけのものではないのだろうか、と薄れかける意識のなかで彼はふと思った。その仕切りのどこに入るかというのは、ただ単に足の踏み出し方の問題に過ぎないのではないだろうか。――(中略)――そこには論理的な連続性はほとんどないのだ。そして連続性がないからこそ、選択肢などといったものも実際には意味をなさないのだ。

 本書『ねじまき鳥クロニクル』という作品について、まず語っておかなければならないのは、村上春樹の作品のなかでは間違いなく長篇にあたる本書の、内容やあらすじといったものを要領良く説明することは不可能だという、厳然たる事実である。より正確に言うなら、あらすじを要約することはできる。だが、その結果生まれてくる文章は、およそ本書の内容を説明するには程遠い、陳腐でどこにでもありそうなエピソードと化してしまうのだ。どのような形にも置き換えることのできない、まさにその物語の形でなければ成立しない本書が何を表現し、どのようなテーマを目指しているのか――それを知るためには、もっと別のアプローチが必要となってくる。

 村上春樹の作品に登場する主人公は、大抵「僕」という一人称で物語を主観的に語るにもかかわらず、その「僕」という人物について、ほぼ一貫して人間らしい主観性や人格、個性といったものが淡白であるのが常である。本書における「僕」こと岡田トオルという人物もけっして例外ではない。むしろ、「岡田トオル」という名前があること自体、違和感を覚えるくらいだ。

 まず、物語がはじまった時点で、彼は長く勤めていた法律事務所を辞めている。それは彼がその冒頭から、社会的なつながりから損なわれた状態にある、ということを意味する。そして彼には、法律事務所を辞めてからの明確な展望や目標があるわけではない。だが、それにもかかわらず、物語は進んでいく。そして進んでいくだけで、何かが進展していくわけではない。それはあたかも、入り口と出口をふさがれた路地のように、けっして空へ羽ばたくことのない鳥の彫像のように、水が枯れて久しい井戸のように、世界はどこにも行き場のない袋小路に陥ってしまっており、岡田トオルはそこから抜け出すことのできない状態にある、と言うことができる。

 僕は仕事をやめてから三ヵ月、ほとんど外の世界には出ていなかった。――(中略)――それは本当に狭い世界だった。そしてほとんど歩みを止めたような世界だった。しかし僕の含まれている世界がそのように狭くなればなるほど、それが静止したものになればなるほど、その世界は奇妙なものごとや奇妙な人々で満ちて溢れてくるように僕には思えた。

 どこまで行ってもどこにもたどりつかない物語――流れの停滞した河の水が徐々に澱み、腐っていくように、岡田トオルの周囲では、彼の言う「奇妙なものごと」が起こり、「奇妙な人々」が出入りするようになるが、それらの要素は基本的に、彼に何かをもたらしたり、彼をどこかへと導いたりすことはない。むしろ、岡田トオルという存在から何かを損なう方向に作用しているようにさえ見えるのだ。

 たとえば、彼はいなくなった猫を探しているうちに笠原メイという少女と出会うことになるが、彼女はペシミスティックなまでに死のことを考えており、ときにそれを彼にも強要しようとする。死という事象は、この閉じた世界から抜け出すための究極の手段であるが、それはその当人を大きく損なう行為でもある。あるいは、間宮徳太郎という老人が登場する。彼は第2次世界大戦中、満州に従軍した経験をもち、そのときの奇妙な体験を生々しく語って聞かせるが、そのリアリスティックな過去は間違いなく主人公たる岡田トオルの存在を大きく凌駕していると言っていい。その他にも本書には何人かの個性的な登場人物が出てくるが、そうしたささやかな些事が積み重なったある日、彼の妻であるクミコが家からいなくなる。

 岡田トオルにとって、クミコは彼と社会とをつなぐ最後の絆である。クミコがいるからこそ、彼はその社会においてささやかではあるが「家庭」という単位に属し、「夫」という役割をかろうじて果たすことができていた。クミコの失踪という事実によって、彼はまさに社会から断ち切られた存在となったわけだが、そこで問題となってくるのは、たとえばクミコが不倫の相手と駆け落ちした、というきわめて表層的、即物的な事実ではなく、彼とクミコが夫婦となることで築こうとしていた「我々の家族」の、向かうべき方向性である。

 先に私は、岡田トオルは袋小路のような、停滞した世界にいる、というようなことを書いた。彼とクミコは夫婦であるが、ふたりのあいだには子どもがいない。以前、クミコが一度だけ妊娠したことがあったが、最終的にクミコは、彼が出張でいないあいだに堕胎する、という選択肢をとっている。現代の社会的傾向はともかくとして、男と女が結びつき、家庭を築く意義は、自身の血筋を受け継ぐ子どもを育てることであり、家庭が発展していくとすれば、まさにそのような方向であるのが自然であろう。そういう意味でも、岡田トオルの世界は停滞していたわけであり、彼はそのどんづまりである枯れた井戸の底で、その事実を知ると同時に、自身を取り囲む閉じた世界を突破するための方法を模索しはじめることになる。

 言うなれば、本書は閉じた世界に風穴を開けるために、ひとりの男が奮闘する物語でもあるのだ。そのために岡田トオルがしなければならないのは、クミコを自分の世界に連れ戻すことであるが、ただ単に連れ戻すのではなく、自分たち家族の属する世界を停滞させる原因を突きとめ、それを取り除かなければならない。具体的に言うなら、クミコの兄にあたる綿谷ノボルとの対決、ということになる。この綿谷ノボルという人物も非常に興味深いキャラクターであるが、物語のなかで最初は芸能界における知識人として、後には政治家として社会的地位を築いていく、いわば岡田トオルとは対極に位置する彼の存在は非常に象徴的でもある。そして対決といっても、現実に殴り合うとかいったものではない。予言と運命、過去と現在、現実と夢――岡田トオルが社会的地位を失うにつれて、こうしたものの境目は曖昧になり、岡田トオルでありながらまったく別の何者かでもある「僕」の戦いとは、世間一般の社会的価値観との戦いとも言えるし、あるいは自分の心の奥にある何かとの戦いとも言えるのだ。

 本書のタイトルにある「ねじまき鳥」とは、もちろん架空の鳥の名前である。ねじまき鳥は、彼にしか見えない世界のねじを巻く。そしてねじまき鳥がねじを巻かなければ、世界は動かない。それは、人々の自由意志を頭から否定する理不尽な存在であり、同時に本書に描かれている物語そのものでもあり、さらには私たちの生そのものでもある。人生とはけっして単純でも明瞭でもなく、複雑で理不尽なものであるが、本書でもしばしば書かれている戦争という過去の愚かしい歴史をまのあたりにしたりすると、善とか悪とかいった、あくまで人間の頭が生み出した概念とはまったく別の次元にある、抗いがたい何らかの力に引き摺られるようにして私たちは生きているのであり、またそのようにして生きるしかないのかもしれない、とふと思うことがある。そうした人間の生に対する言葉にならない理不尽さ、不条理さといったものをまぎれもなく表現している、という意味では、本書は間違いなく第一級の文学作品であると言うことができるだろう。(2003.08.24)

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