【角川書店】
『ナラタージュ』

島本理生著 



 最近、盛田隆二の『夜の果てまで』や山田詠美の『風味絶佳』など、恋愛をテーマにした小説を手にとる機会に恵まれている。前者は自身のなかに芽生えてしまった、ある女性に対する恋愛感情を受け入れ、その女性のためにすべてを投げ出して飛び込んでいこうと決意するまでに多大な時間を費やし、後者は同じ感情をいだきながらも、いとも簡単に自身の恋愛感情のおもむくままに行動を起こしていく、という作風の違いはあるものの、そこにあるのは自分が恋に落ちた相手を獲得したい、自分だけの特別な存在にしたいという、いわばアクティブな感情であり、また自分から動き出さなければ何ひとつ変わりはしないのだ、という恋愛に関する積極的なスタンスである。

 以前も少し触れたが、私が恋愛小説というジャンルにある種の苦手意識をもっているのは、おそらく恋愛という特別な状態につきまとう激しい感情の起伏に、怖気づいてしまうところがあるからだろうと思っている。もちろん、恋愛というものが相手との距離を縮め、あくまで他人同士であったときよりも深く相手と関係することである以上、相手の良い面だけでなく悪い面も見えてしまうものであるし、また自身の内にあるものを相手にさらけ出す覚悟がいるのは必然であるが、それは同時に、これまでそれなりの距離をとることで保たれてきた相手との関係性をいったん崩すことを意味してもいる。一歩踏み込めば、そのぶんだけ相手に近づけるわけではなく、そのことによって相手が十歩も二十歩もさがってしまうことだってある。もしそうなってしまった最初の原因が、自分の踏み出した第一歩であったとするなら、私ならその第一歩を激しく憎むことになるだろうし、そうなるくらいなら、むしろ今のままの関係を維持していくほうがよほどましだと考えるだろう。

 恋愛という感情が、これまで理性によって維持されてきた人と人との関係性に満足できなくなってしまうことであるとするなら、恋愛が一種の病気であると指摘した人は、正しい。それでなくとも、自分と相手との距離のバランスをとっていくのは難しいことなのだ。本書『ナラタージュ』もまた、男女の恋愛を描いた作品であるが、そこには不思議なことに、恋愛することにともなうアクティブな部分はほとんど感じられない。では恋愛小説ではないのか、と問われれば、本書は間違いなく恋愛小説だと断言できる。ただ、そこにともなう言動が驚くほど静かなのだ。そしてその表面上の静けさ、穏やかさが、逆に登場人物たちの想いの深さ、激しさを表現する手段となっている。

 僕はね、いつだって君が心配なんだ。苦しんだり傷ついたりしないで生きているかどうか。それが守れるなら僕の独占欲なんてどうでもいし、執着を見せないことを薄情だと取られてもかまわない。

 工藤泉は大学一年、一月に父親がドイツに単身赴任となり、母も彼についていくことになったため、彼女はアパートでひとり暮らしをはじめることになるが、そんな泉のもとに一本の電話がかかってくる。それは彼女が通っていた高校の教師、葉山貴司からのもので、彼が顧問をしている演劇部の部員が三年生三人だけになってしまうため、九月の最後の発表に役者として手助けしてほしい、というものだった。泉は高校時代に演劇部に所属していて、葉山先生にはいろいろと世話になっていたが、そこにはたんに生徒と教師という立場以上の感情がたしかにあった。

 こうして物語は、過去に高校卒業というひとつの区切りを経ていったんは距離を置いていた男女が、ふたたび接近していくという流れを描いていくことになるが、表面上で進行していくのは、あくまで演劇部での練習の様子や、そこで知り合った部員たちや、かつて同じ部員だった同級生たちとの交流、あるいは本書の語り手でもある泉の生活といったものが中心となっている。そして泉と葉山との関係については、じつは恋愛小説でありがちな、劇的な感情の変化といったものはほとんど見られない。それゆえに、本書はまぎれもない恋愛小説でありながら、まるで箱庭のような密やかで静かな雰囲気が物語全体に満ちているのだが、それは当然といえばあまりにも当然の帰結だと言える。なぜなら、泉にしても葉山にしても、お互いがお互いに対していだいている気持ちについては、ふたりが生徒と教師として出会ったときからすでに決定づけられてしまっており、これ以上変化しようがない状態のまま今にいたっているからである。

 では、本書のなかでいったい何が変化していくのかといえば、それはふたりを取り巻く状況の変化である。それはあるいは、それぞれが社会生活を営むうえで否応なく巻き込まれてしまういくつものしがらみの変化でもある。しかし、その状況さえも、前半部ではほとんど変化することはない。本書を読み進めていくことで、読者は過去にふたりのあいだで何があり、どのような経緯をへて今にいたっているのかを、おぼろげながら知ることができるのだが、演劇発表に向けての練習という口実で、ふたたび同じ時間を共有するようになったふたりにできることは、せいぜいお互いの立場が以前とほとんど変わっていないという事実を再確認し、受け入れることくらいのものでしかなく、だからこそ本書がかもし出す雰囲気は、穏やかなくらいに静かなものであるのだ。

 もちろん、ふたりの年齢的な差、あるいはかつて先生と教え子だった、という事情もあるかもしれない。だが、お互いがお互いのことを憎からず想っているところがあり、しかもそのことをお互いがよく知っている、という立場にありながら、それでもなおどちらも現状を打破する第一歩を踏み込めずにいるのは、恋愛感情がもつアクティブさからいうなら、あるいは異例のことであり、読者のなかにはふたりの関係にじれったさを感じる方もいらっしゃるかもしれない。だが、好きになった異性を自分のものにしたい、自分だけを特別な存在として見てほしいという願望のままに、周囲の状況を破壊してでも突っ走っていくには、ふたりはあまりにもお互いに対してこまやかな神経を使いすぎるところがある。じっさい、泉と葉山とのあいだには、積極的に愛を交わす恋人同士というよりは、むしろ心情的につらいときや苦しいときにそばにいて、何らかの力になってあげる保護者と被保護者といったほうがしっくりとくる関係がある。それは、獲得するもの、奪ったり奪われたりする恋愛ではなく、自分の居場所を探し求めるような恋愛の形である。

 本書のもつ雰囲気について、私は「箱庭のような」という比喩を使った。それはお互いにとって、心安らぐかけがえのない場所である。だが、その場所はあまりに脆すぎて、ちょっと力を加えただけですべてが台無しになってしまいかねないものでもある。しかも、その箱庭はいまだ完成しておらず、それゆえに決定的に自分の居場所にはなりえない。そんな状況を思い浮かべてほしい。自分がその隣にいて、このうえなくしっくり来る場所としての恋人、そんな形の恋愛もあるのだということを、本書は教えてくれる。

 がらんとした部屋の中で、時の流れにさらわれていくのを感じた。雨の廊下で出会ったあの日からきっと、私は同じ場所にいた。前進したり後退していたと思っていただけで、本当はずっと立ち尽くしていた。今度こそ私はどこへでも行ける。ちっとも嬉しくなかった。

 何気ない日常の情景のなかに、登場人物たちの心情を織り込んでいくその文章センスは、以前に書評した『リトル・バイ・リトル』でもわかってはいたが、本書においては恋愛小説、それもけっして積極的ではない恋愛をあつかっていることもあってか、その効果が抜群に発揮されているのを感じさせる。一歩を踏み出さなければ、何も変わらない。だが、たとえ一歩踏み出したとしても、自分が求める場所には永遠にたどりつけないことがわかっているとき、その一歩は、その場所から遠ざかるための第一歩しかありえない。本書は恋愛小説であると同時に、自分の居場所を喪失する物語でもあり、だからこそ、ラストでその第一歩を踏み出した泉の姿に、胸がしめつけられるほどの切なさを感じずにはいられない。そして読者はきっと、生きていくというのは、そういうことなのだとあらためて思い知ることになるのだ。(2006.02.20)

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