【東京創元社】
『ななつのこ』

加納朋子著 
第3回鮎川哲也賞受賞作 



 ふと、昔のことを思い出す。私がまだ小学生だった頃のことだ。
 その頃の私はけっこう「なぞなぞ」が好きで、その手の本を買ってもらっては、せっせと読みふけっていたものだった。だが、なぜ「なぞなぞ」が好きだったのか、と考えてみると、そこには、小学生にしてはずいぶん不純な動機があったことを認めざるを得ない。恥を承知で打ち明けるが、私は純粋に「なぞなぞ」が好きだったわけではない。「なぞなぞ」以前に、他の同級生たちが知らないことを少しでも多く知ることで、ちょっとした優越感に浸りたい、という気持ちが当時の私にはあったのだ。とにかく答えを知ること――それが当時の私にとっての最重要課題であったわけだが、もしその頃の私が、答えではなく、問題の方――その「なぞなぞ」がほんとうに言いたいことは何なのか、そして、どんなふうにしてその「なぞなぞ」が生み出されていったのか、ということに注目していれば、あるいは私の人生は大きく変わっていたのかもしれない。

 以前にも紹介した同著者の『ガラスの麒麟』は、ある女子高生が書いた童話のタイトルでもあったが、本書のタイトルにもなっている『ななつのこ』は、同時に本書に登場する入江駒子という十九歳の女子短大生が出会うことになる一冊の本のタイトルにもなっている。不思議なノスタルジーを感じさせるその本の表紙絵と、そこに収められている七つの短編の内容にすっかり魅せられてしまった駒子は、衝動買いだけではあき足らず、作者の佐伯綾乃に長い長いファンレターなるものまで書いてしまう。もちろん「ななつのこ」の感想と、それと近況報告を兼ねた「スイカジュース事件」――近所の道路に点々とつづいていた正体不明の血痕に関することを添えて。
 ところがおもいがけないことに、佐伯綾乃本人から駒子に宛てた返事が届く。しかも、そこには駒子が書き記した「スイカジュース事件」に対する、いかにも「ななつのこ」の作家らしい想像力をはたらかせた「謎解き」が添えられていたのだ……。

 本書『ななつのこ』は、このように駒子の身近でおこったちょっとした事件の一部始終と、その事件に対する佐伯綾乃の謎解きを兼ねた返事、という形で綴られている六つの章に、それら六つの章を包括した「真相解明編」とも言える一編を加えた七つの章で成り立っている。一度も殺人事件の起こらないミステリーとしても名高い本書であるが、その一番の魅了を言い表すには、駒子が書いたファンレターの冒頭を引用するのがもっとも適切であろう。

 いったい、いつから疑問に思うことをやめてしまったのでしょうか? いつから、与えられたものに納得し、状況に納得し、色々なことすべてに納得してしまうようになってしまったのでしょうか?
 いつだって、どこでだって、謎はすぐ近くにあったのです。

 そう、本書のなかでおこる事件は、その真相さえわかってしまえば、本当に何ということのない、ごくありふれたものでしかない。しかし、そこには人間なら誰しもが持っている優しさや弱さ、そして現実の厳しさとかいったものをあらためて考えさせられてしまう何かがある。いつの間にか無くなってしまった一枚の写真、老婦人と小さな女の子の奇妙な行動、真っ白に塗りつぶされたタンポポの花――暴力や異常性愛、幼児虐待、無差別殺人など、明らかに常軌を逸した暗い事件が続発している今の世の中に生きる私たちにとっては、ついつい見逃してしまうようなささいな事に、しかし駒子は目を移し、そして疑問に思うことを忘れない。そんな駒子ののびやかな態度と、その疑問を真摯に受けとめ、想像力を武器に推理をはたらかせていく佐伯綾乃、さらにはもうひとつの「ななつのこ」に登場するはやて少年や<あやめさん>なる女性の存在に、読者はきっと暖かいほほえみを浮かべているに違いない。

「どうしてリンゴは落ちるのか、どうしてカラスは鳴くのか」と駒子のファンレターは続く。その「ささやかで、だけど本当は大切な謎」は、答えを見つけること自体が重要なわけではないのだ。重要なのは、答えを待っているものが存在する、ということ――そしてそのような存在を、私たちがいかにして見つけ出してあげられるのか、ということではないだろうか。

「なぞなぞ」の答えを知るのは簡単だ。だが、「なぞなぞ」そのものをつくるのは、けっして簡単なことではない。はたして、本書を手にとる読者のなかに、「なぞなぞ」を生み出すだけの想像力を持ち得ている人は、どのくらいいるのだろうか。(1999.10.13)

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