【新潮社】
『その名にちなんで』

ジュンパ・ラヒリ著/小川高義訳 



 名前でとくに印象に残っている作品といえば、私は北村薫の『夜の蝉』のなかのひとつ、「朧夜の底」を思い出す。「円紫師匠とわたし」シリーズの二作目にあたるミステリー小説であるが、ここでいう名前とは作品名のことではなく、高岡正子という登場人物の名前のことである。ちなみに「正子」はここでは「しょうこ」と呼ぶのだが、彼女はなぜか自分の星座や誕生日を人に明かそうとしない。それはいったいなぜなのか、そして彼女の誕生日はいつなのか――そんな日常の、ちょっとした謎を追ううちに、思いがけず友人の名前に込められた思いが明らかになっていく、という味わい深い短編であるが、本書『その名にちなんで』を読み終えたとき、その深く余韻の残る読後感にひたりながらもふと思い出したのが、上述の作品のこと、そして「名前」というものがもっている不思議な性質であった。

 本書はインドのベンガル地方出身で、現在はアメリカに在住しているアシマが男児を産み落とすところからはじまる。夫のアショカもまたベンガル人であるが、マサチューセッツ工科大学の助教授ということで、彼女は婚約後、生まれ故郷から遠く離れた別大陸に生活の基盤を置くことになった。生まれた子どもには、昔からの土地の伝統にしたがって、アシマの曾祖母が名前をつけ、郵便で送られてくることになっていた。だが、男児の名前が書かれた郵便は、いつまで経ってもガングリー夫婦のもとには届かない。やがて退院の日が迫り、同時に名前の決定も迫られるという事態に、とっさにアショカが思いついたのは、「ゴーゴリ」という名前だった。こうしてゴーゴリはこの世に誕生した。

 前作『停電の夜に』のときも感じられた、けっしてある特定の登場人物に深く思い入れることなく、あくまで少し離れた地点から、夜の帳のように静かに人々の人生の機微を描いていく筆致はそのままに、ゴーゴリの成長と彼をとりまく家族の生活がきわめて精緻に展開されていく。住んでいるアパートの様式、身につけている装束品、髪や肌の色はもちろん、着ている服のほつれやクリスマスツリーの飾りひとつひとつ、ときには見ているテレビ番組の名前や使っている剃刀のメーカー名まで明記していく描写のこまかさは、こまかいというよりは細やかという表現が相応しい。なぜなら、描写する対象の詳細をピックアップするとき、そこにはただたんにアメリカで生活している登場人物たちを、リアルな存在として浮き立たせるだけでなく、インドとアメリカという、生活習慣も文化もあらゆるものが異なっているふたつの世界が混在し、対比されていく様子を、さらにはそこに込められた歴史をも際立たせる役目をはたしているからである。それゆえにその表現は押しつけがましくも、また過剰になることもなく、きわめて抑制の効いたものであることが感じ取れるのだ。

 アシマは家のなかでもサリーを身につけ、アメリカ在住のベンガル人たちとの付き合いにこだわり、食事もパーティーもベンガル形式で、何度も故郷のインドに戻っては、何ヶ月もかけて親戚の家々をまわって歩くことを厭わない。故郷を遠く離れていながら、あくまで自分がベンガル人であり、その風習に固執しようとするのに対し、容姿こそ純粋なアジア系でありながら、アメリカという文化のなかで生まれ育ったゴーゴリや妹のソニアは、そうした親たちの生活習慣やしきたりが、ときに押しつけがましく、うっとうしいものとして感じられて仕方がない。自分ははたしてベンガル人なのか、それともアメリカ人なのか、というアイデンティティの拠り所の問題は、著者の作品からは切っても切れない重要なテーマのひとつであるが、そういう意味では「ゴーゴリ」という名前がつけられたエピソードは非常に象徴的だ。ロシアの文学者ニコライ・ゴーゴリからとられたその名前は、アメリカ風でも、またベンガル風でもない。さらにゴーゴリ自身の弁を借りるなら「苗字を名前にしたようなもの」であり、およそどのような既存の文化や社会にも属さない名前でもあるのだ。そしてゴーゴリは成長するにつれて、その名前が象徴するように、両親たちをはじめとする周囲のベンガル風の環境からできるだけ距離を置き、ゴーゴリからニキルへと変名をしてまで、それまでの自分自身を変えて生きていこうとする。

 さまざまな女性との出会いと燃えあがる恋――それは、ゴーゴリがニキルになってから起こった出来事のひとつであるが、ちょっとした出来事がお互いのすれ違いを生み、やがて距離が生じて別れていく。その様子は、まるでニキルとゴーゴリというふたつの名前、そしてそれらがもつ個人としての重みと思いとのあいだを、ゆらゆらと揺れ動いているかのようである。そしてその揺れは、父アショカからゴーゴリという名前が付けられた本当の由来を聞かされてから、さらに大きくなっていく。そうした彼の心情や葛藤は、けっして言葉で直接に書かれることはない。だが表面上で書かれなくとも、自分たちが何者であるのか、というアイデンティティの不安定さは物語のなかで何度も感じさせられるものである。そうした部分をじつにさりげなく表現していくのは、本書の特長のひとつであるが、それゆえに私たち読者は、そうした不安定さはゴーゴリひとりだけのものではなく、アショカにしろアシマにしろ、そして妹のソニアや、一度はゴーゴリと結婚もしたベンガル系アメリカ人のモウシュミにしても同じであることがわかってくる。

 自分たちが生まれ育った社会と、アメリカ社会との違い、英語とベンガル語のふたつの言語――外国で生活することは無期限の妊娠中のようなものだと語ったのはアシマであるが、そうした不安定さのなかで、ときに衝突を起こしたり失敗を繰り返しながらも、それでも自分たちなりの価値観を生み出し、あるいはいろいろなところで妥協点を見いだしながら、懸命に生きていくガングリー家の姿は、ふたつの世界とふたつの世代をまたがったものであるだけに感動的である。たとえ、それが思わぬ偶然の連続によって生じた大移動であったとしても、彼らがじつに遠いところまで来て、その名前をたしかにその地に残したことはたしかなのだ。そして、「ゴーゴリ」という、いっけんするとふざけたような名前が、まさにその点をちなんでいることを、読者は最後には知ることになるはずである。

「ずっと覚えてるんだぞ」ゴーゴリがたどり着くと父は言い、急ぐこともなく防波堤を後戻りして、母とソニアが待つところへ連れていった。「覚えておけよ。おれたち二人で遠くへ行ったんだ。もう行きようがなくなるまで行ったんだからな」

 人がこの世に生まれてきて、まず与えられる名前――たしかに自分を表すものでありながら、自分以外の人がもっぱら使うがゆえに、本当に自分自身のものとしてしっくりいくまでに時間を要し、またそれに付随していろいろな情報を相手に伝えずにはいられない名前というものについて、あらためて考えさせられる。名前に縛られ、名前とともに付随するすべてのものをあらためようとし、しかしどうしても逃れられないものになかば振り回されるようにして生きてきたひとりの人間の、まさに「その名にちなん」だ生がたしかにそこにはある。(2005.03.15)

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