【藤原書店】
『わたしの名は紅』

オルハン・パムク著/和久井路子訳 



 小説の形式として、登場人物の特定の誰かに視点をあわせ、その人が見たり感じたりすることだけを書いていく、あるいはその人の口を借りて物語を語らせていくのが一人称小説であるとすれば、特定の人物に依存することなく、全体を俯瞰するように物語をつむいでいくのが三人称小説である。一人称小説が人間の視点であるのに対して、三人称小説はしばしば「神の視点」という表現がもちいられるが、じっさいは三人称で書かれていながら、ある特定の人物に焦点をあてている、きわめて一人称小説に近い形式のものが多く、またそうでなくても、物語の語り手としてどこかの講釈師のような人格が見え隠れするようなものもあり、真の意味で「神の視点」を実現している三人称小説は、驚くほど少ない。

 そもそも小説を書くのが人間である以上、その人間の主観でしか世界は構築できないと言える。私たちはどこまでいっても、人間であることに縛られている。神という存在があるとしても、それがどのような視点をもち、どのような感覚をそなえているかなど、けっきょくは想像の域を出るものではない。だが一方で、キリスト教をはじめとする一神教圏の国々の歴史において、絵画や音楽といった芸術は、常に宗教と結びつくものでもあった。そこでの表現形式は、主体となるのは人間ではなく神であって、神を賛美するための芸術という位置づけが第一にあった。そのような時代にあって、芸術を表現する立場にあった人たちは、いったいどのような心境で自身の創造するものと対峙したのだろうか。

 細密画とはアラーの神が世界をどうご覧になるかを絵の中で探し求めるものである。そしてその無比なる光景は、厳しい研鑽生活の末に、細密画師が精根尽きて到達する盲目の後に思い出される。つまり、アラーの神がこの世をどうご覧になられるかは、盲目の細密画師の記憶によってわかるのだ。

 十六世紀のイスタンブルを舞台とする本書『わたしの名は紅』は、ある細密画をめぐる物語である。それは、オスマン・トルコ帝国のスルタン(支配者)によって極秘に命じられた写本の挿絵のことであり、本書の主要人物のひとりであるカラは、写本作成の命を受けたエニシテの手助けをするために、十二年ぶりにイスタンブルに戻ってきたところである。だが、そんな彼を待ち受けていたのは、写本の装丁のためにスルタンの工房で仕事をしていた名人の細密画師のひとり、「優美」と呼ばれる男が何者かに殺され、井戸に捨てられたという恐るべき事実と、エニシテの娘で、かつても今もカラの想い人であるシェキュレが、戦争に行ったまま四年も戻ってこない夫を無為に待ち続けているという事実だった。

 カラやシェキュレをはじめとして、多くの登場人物が語り手となり、次々と一人称が移り変わりながらひとつの物語を紡ぎ出していくという構造は、それほど目新しい手法というわけではない。とくにその背景にイスラム教独自の事情や、細密画という職業がその当時もっていた意味合いなど、特殊性のある知識がその物語の進行に大きく関与してくるような場合、何人もの語り手によって世界をさまざまな切り口で表現させることは、説明的な文章を羅列することで物語が滞ることを防ぎながら、その世界がもつ文化や因習といった雰囲気を読者に自然に感じ取ってもらうのに最適なものだ。

 だが、その殺された屍が、自身の腐りつつある肉体を意識しながら読者に語りかけ、あるいは細密画や絵画に描かれた犬や木といった無機物さえもが、まるでそれが当然であるかのごとく語り手として登場し、さらには読者である私たちの存在すら意識しているところがある本書を読み続けていくうちに、あたかも本書そのものがひとつの壮大な細密画であるかのように思えてくる。私たち読者の視点は、けっしてある特定の登場人物に固定されることなく、今回の殺人事件の背景に見え隠れするある冒涜的な試みのことや、シェキュレのカラへの想い、男女の仲をとりもつ小間物屋の女という風習や、細密画と宗教との深いつながりといった要素が、物語の進行にふさわしいタイミングでつかむことができる。それは、たとえばカラだけを追いかけていては実現しないたぐいのものでもある。

 入り混じる数多の語り手のなかに、名前を明かさない殺人犯の語りが挿入されてくる本書において、私たちは殺人事件の被害者の言い分も、加害者の言い分も知りえる立場にある。はたして犯人が誰なのか、というミステリーとしての要素があるのはたしかであるが、犯人探しが本書の主体というわけではない。同じように、カラとシェキュレの恋愛の行方という要素もあるが、それも物語の主旋律を奏でているわけではない。本書が見事なのは、そうしたさまざまな物語の要素、登場する語り手に対する絶妙な距離の置き方だ。少しでもその距離感にズレが生じれば、本書は中途半端なミステリーか恋愛小説にしかならなかったに違いない。

 物価高や疫病、戦火といった災厄で退廃的な雰囲気が帝国を包み、その原因を信仰の乱れにあるとして過激な行動に出るイスラム原理主義の原型となるような動きがあるいっぽうで、ヨーロッパの絵画芸術における遠近法の技術や肖像画という概念が、それまであった細密画の宗教的な意味合いを崩しかねないほどの影響力をおよぼしつつある世界を見事に映し出した本書が、細密画のようであると表現した。それは、遠くにあるものが小さく描かれることで人間の視点を得た遠近法とは異なる、言うなれば「神の視点」に匹敵する距離感を実現しているという意味も含んでいる。死者が生者と同じように語り、無機物があたかも人間であるかのごとく思考する本書において、私たちは生死をはじめとするあらゆる人間としての概念を超越した世界を体験することになる。その緻密で圧倒的な世界観をぜひ楽しんでもらいたい。(2011.05.20)

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