【文芸社】
『なまぬるいスープ』

曽野十瓜著 



 たとえば――そう、あくまで仮定の話として、あなたの知り合いの誰かが何らかの犯罪の容疑で逮捕されるような事態になったとして、あなたはその事実についてどのような受け止め方をするだろうか。「ああやっぱり」と思う場合もあるだろうし、にわかには信じられないという思いを抱く場合もあるだろうが、いずれにしろひとつ明らかなのは、私たちはえてして、他者の存在について、その本質よりも自身の主観のイメージを先行させてしまう、という一点である。

 私たち人間はしょせん、自身の主観のなかで生きていくしかない生き物であり、そうである以上、自分以外の誰かについて、そのすべてを理解するのは不可能である。もちろん、長く生活をともにしたりすることで、その人のことをよりよく知っていくことはできるだろう。だが、そうやって知り得たと思っていた事柄にしても、その人のひとつの側面であったとしても、けっして本質ではありえない。いや、そもそも個人における「本質」とは、どのようなものを指しているというのだろうか。

 自分の妻の体が、その内側から少しずつ溶けていく――本書『なまぬるいスープ』についてこんなふうに書き出していくと、あるいはホラーやパニックもののストーリーを思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれないが、本書の本質はむしろ、親しいと思っていた他者の存在が、人智の理解を超えた何かに変質していくことによって引き起こされる、人と人との関わりあいの変質であり、またその断絶の感覚にこそある。

 現に妻は倒れた。何も無くしていきなり倒れるわけがないのだ。
 彼女の肉体に一体何が潜んでいるというのか。彼女の肉体にどんな変化が起こっているというのか。
 その恐怖を、私は「今まで何も気づいてやれなかった」という後悔に無理矢理変化させていた。

 病名はおろか、治療法も対処法もわからないまま、体の内側が徐々に溶解し、それにともなって皮膚もまた、その本来の色素や組織を失って、まるで水のように透きとおっていく――しかも、そんな状態になった事実に彼女が狼狽したのはただ一度きりで、その後は、まるで感情をなくしてしまったかのように、ただ寝たり起きたりを繰り返すという設定そのものは、むしろSFめいたものさえ感じさせるような、およそリアルではありえない出来事であるが、それでもなお本書がリアルな読み物として成立しているのは、その常軌を逸した出来事を前にした語り手の言動や心理状態がこのうえなくリアルだからに他ならない。

 繰り返しになるが、私たちはそれぞれの主観の世界を生きる生き物である。そして、その主観から導き出される常識からあまりにも逸脱した状況におちいったとき、人は少なからずパニックを引き起こす。未知というのは、理知的な人間にとっては基本的に恐怖の根源なのだ。妻の体に起こった変化は、言ってみれば語り手の主観が形成する妻という人物の常識をことごとく打ち砕くものである。じっさいの妻の外見上の変化と並行するかのように、本書では語り手のよく知るはずの妻の内面においても、これまでとは違った側面を見いだすようなシーンが出てくる。そして、それは妻の消滅した後にも途切れることはない。

 それまで身近な存在だったはずの妻が、まったく得体の知れない存在へと変化していくという恐怖を前にして、語り手である「私」は、引用文にもあるように、自身の主観にある常識の範囲によって、妻の身に起ころうとしていることを無理やり理解しようとする。だが、そんな語り手の奮闘や苦悩とはまったく無関係に、妻の体の溶解は進んでいくし、肉体はおろか、心でさえも以前の妻の面影を失っていく。そんな状況において、それでもなお妻の側に立とうとするのであれば、自身もまた妻の属する世界へと身をゆだねるしかない。だが、それはどんなに望んでも叶うことのない願いだ。そして、だからこそ語り手の絶望はつのっていく。

 語り手と妻との関係の変質、そして、語り手と彼以外の人物との関係の変質――このうえなく異質な「何か」に変わろうとしている妻の側にも、またかつて自分たちがいたはずの世界にも属しきることができず、その狭間で足掻くしかない語り手の言葉にできない苦悩や焦燥が、その両方の世界との衝突と摩擦の生々しさを通じて表現されていく様子が見事な本書であるが、その異質な「何か」に変わってしまった妻について、たとえばどのような解釈ができるのかを考えるさいに、じつは彼女自身もまた、この世界に対する違和感を覚えていた、という事実を忘れるわけにはいかない。あるいは、この世界に対する自身という存在の異質感、と言ってもいいのかもしれないが、常に病気がちで、それゆえに両親をはじめ、自分と関係する人たちに少なからぬ迷惑をかけてきた、という自責の念が、そのまま生きることそのものへの諦念へとつながっていったとしても、おかしなものではない。

 人は生きていれば、それだけで何らかの形で他人に迷惑をかけることになる。それは自分だけでなく、すべての人間について言えることであり、だからこそその点についてはお互い様だという考え方が出てくる。おそらく、それが普通なのだろう。だが、その普通の考え方を自身に許容できない人たちがいる。私にも多少覚えのある考え方なのだが、誰かに迷惑をかけるような生き方にこのうえないストレスを感じてしまうのだ。そして、最後には自分の存在をこの世から消してしまいたいという思いにとらわれる。妻の体が水のようになって溶けていくというその変質と結末について、人魚姫の童話を取り上げるほど私も本書もメルヘンチックな性格ではないのだが、そうした願望を思わせるようなシーンが、本書にはいくつか書かれている。そして、そうした思いについても、語り手の知らなかった妻の側面のひとつである。

 まさしく泡のようにこの世から自身の存在を消してしまうことになる妻――誰もその事実を信じようとしないなか、それでもなお語り手の「私」のなかに残っているものは何なのか、ぜひともたしかめてほしい(2007.04.12)

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