【アーティストハウス】
『ナルダが教えてくれたこと』

スチュアート・デイヴィッド著/田栗美奈子訳 

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 以前読んだ森絵都の『DIVE!!』は、飛込みという水泳競技をあつかったスポ根小説であるが、その作品に登場する女コーチが、ある少年に対して「あの子はダイヤモンドの瞳をもっているのよ」と語るシーンがある。
 もちろん、彼女はその少年の瞳が本物のダイヤモンドでできていると思ったわけではない。少年自身すら気づいていない、ダイバーなら誰もがうらやむ天性の才能――並外れた動体視力を見抜いたうえで、その希少価値を表現する比喩として「ダイヤモンドの瞳」という言葉を使ったわけであるが、少なくとも自分という人間を高く評価してくれている、という意味で、その少年にとってはけっして悪い気はしないだろうことは、想像に難くない。

 だが、もしこの少年が、そのコーチの言葉をまさにそのままの意味として受け取ってしまったとしたら――自分の目が本物のダイヤモンドでできていると思い込んでしまったとしたら、おそらく物語はその時点で破綻し、できの悪いギャグ小説と化してしまうに違いない。たしかにダイヤモンドは貴重な宝石で、誰もが手に入れたがる価値あるものだが、大切なのはあくまでその少年のもつ、何物にも換えがたいダイバーとしての素質であって、容易に誰かの手で奪われてしまうようなものではないはずなのだ。

 さて、本書『ナルダが教えてくれたこと』であるが、じつに興味深いタイトルである。原書タイトルは「Nalda Said」であるが、本書を読み終えて、あらためてそのタイトルの意味を考えたとき、原書タイトル以上に多くの含みを秘めていることを読者は知ることになるだろう。じつに印象に残る、名訳である。

 ナルダとはいったい何者で、誰にどんなことを教えたのか――本書のタイトルとして出てくるナルダであるが、じつは物語のなかではある男の過去の思い出として語られるだけの存在である。そして、本書において一人称「ぼく」として物語を語るその男は、けっして自分の名前をあきらかにしない。それどころか、年齢がどのくらいなのか、どんな容貌をしているのかさえはっきりさせようとしないのだ。

 物語の中心的人物であるにもかかわらず、その外見的特徴を読み手にイメージさせない――もちろん、過去にそのような作品はいくらでもあったし、とくに男性が語り手の場合、自分の顔形など普段たいして意識することもない、という意味では、一人称の語り手が自分のことを印象づけるような行為はかえって不自然でさえあるのだが、本書の語り手については、そうした自己の情報の隠匿という部分が、非常に意図的におこなわれている。それも、けっしてスマートでさりげない感じではなく、隠そうとするせいでかえって目立ってしまうほどぎこちなく、いかにも不器用なやり方なのだ。

 うわ、危ない。もうちょっとでぼくの名前を教えちゃうところだったけど、そうするつもりはないんだ。今はまだだめ。念のためにね。万が一ってことがあるもの。

 そう、この語り手は、その「万が一」が起こってしまうことを極端なまでに恐れている。まるで、ちょっとしたことですぐ逃げ去ってしまう野生動物のように、けっしてひとところに定住することなく、また誰かと深い交流をもったりすることもなく、たったひとりで生きてきたこの男には、ある秘密があったのだ。かつて、彼がまだ小さく、伯母であるナルダと暮らしていた頃に、彼女が教えてくれたとっておきの秘密――おそらく、彼のたったひとつの生きる希望でもあるその秘密は、しかしその秘密が他人に知られてしまうことを恐れる彼に、まるで犯罪者のような逃亡生活を強いることにもなっていた。

 だが、本書を読み進めていった読者は、きっと彼の話にある違和感を覚えることになるだろう。
 はたして、彼がかたくなに信じて疑っていないその秘密は、本当のことなのだろうか、と。

 本書と似たような展開をあつかった作品として、江國香織の『神様のボート』がある。これは、家族を残して失踪した夫の言葉を信じて、ただひたすら閉じた世界に生きる母子の物語であるが、本書のこの男の場合、彼の母親がわりとしてさまざまな物語を語ってくれたナルダが、精神に異常をきたした結果、彼がたったひとり取り残されてしまったという意味で、悲劇の度合いはさらに高いものとなっている。

 彼のかかえる秘密は、ナルダ以外の人間には文字どおり絶対の秘密であり、そうである以上、その秘密の真偽をはっきりさせることのできる人間は、ナルダ以外にはありえない。だが、物語がはじまった時点で、ナルダはもうそばにいない。おそらく、彼以外の誰もが「なにかおかしい」と感じるに違いないその秘密――しかしその男にとっては、世界じゅうのすべてを否定してでも信じるべきものとなってしまっているのだ。そんな彼の姿は非常に滑稽であり、そしてそれ以上にやるせなく、哀しい。

 ほんのちょっとでも秘密が誰かに知られてしまったという兆候を感じたら――たとえ、それが彼の信じる秘密とはまったく何の関係もない、ただの勘違いだったとしても――それまでのすべてを放り出して逃げ出せるよう、用心深く、細心の注意をはらって生きている「ぼく」は、人間が得になること、利益を得るためなら、「いちばん大事な相手にさえひどいことをするものだ」ということを知っている。そして、同時に誰もが悪い人間であるわけではない、ということも彼は知っている。だが、これが重要なのだが、「ぼく」が知っているのはあくまで情報であって、しかもそこから発展していくことがない、という点である。彼は逃げ出したあと、「もしかしたら自分が勘違いしていただけで、本当は良い人だったのではないか」と考えはするが、そこから思考はけっして先に進まない。その人が本当に信用できる人間なのかどうか、たしかめるすべがない以上、彼は同じことを繰り返すしかない。そういう意味で、彼もまた「閉じた世界」に生きている人間なのだ。

 人が何に望みをもって生きていくか、それは人それぞれである。人は何かに希望をもつことによって、その日その日を過ごしていける生き物でもある。だが、逆にその希望が人をがんじからめに縛りつけてしまうこともありえるのだ、ということを、本書は教えてくれる。人を愛すること、友人として相手を信用すること――たしかに、それは誰もがもっているありきたりな感情であり、その感情のせいでときに人は誰かを傷つけ、また誰かから傷つけられたりする。だが、たった一度の怪我が致命傷になると信じ込んで、人を愛したり信用したりすることができなくなったとしたら、その人ははたして、人として生きていると言えるのだろうか。

「あなたにはダイヤモンドの価値がある」という比喩を、「自分の体のなかにダイヤモンドがある」と受け止めてしまったまま、それを修正することもできない、閉じた世界に生きるその男が、はたしてその閉じた輪を打ち破ることができるのか――ぜひその結末をたしかめて、そしてあらためて本書のタイトルに込められた意味を考えてもらいたい。(2004.04.04)

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