【角川書店】
『裸者と裸者』

打海文三著 



 小さい頃、殺虫スプレーを火に向けて噴射するという火炎放射まがいの遊びをしているところを父親に見つかって、その場でこっぴどく叱られた経験があるが、一歩間違えば大惨事になりかねない危険なことや、他人を傷つけたり迷惑をかけたりするような行為に対して、それが間違ったことであると厳然と諌めてくれる大人の存在が、物事の善悪がまだよくわかっていない子どもの成長においてどれほど重要なことなのか、今となっては痛いほどよくわかる。

 社会生活を営む私たちにとって、何が良いことで何が悪いことなのかという判断は、自分以外の多くの他者と協調して生きていくために必要不可欠な要素のひとつである。逆に言えば、そうした概念――あるいは道徳観とか常識とかいった言葉で言い換えてもいいのかもしれないが、そうした社会を社会として成立させるための最低限のルールが守れなければ、その人はやがて社会そのものから孤立し、その外側で生きざるを得なくなってしまう。子どもを叱りつけてそうしたルールを守るよう教育していくのは、ふつうは両親の役割だ。だが、そうした大人の存在が不在のまま成長していくことを余儀なくされた子どもたちは、はたして自分と社会との関係について、どのように折り合っていけばいいのだろう。

「われわれ戦争孤児の、適応のかたちは、二つに一つだ。自殺するか、さもなくば悪党になるか」

 今回紹介する本書『裸者と裸者』の舞台となる日本は、長い内乱状態にある。金融システムの崩壊にともなう経済恐慌と財政破綻、そんななか、国の軍隊が政府軍と反乱軍とに分裂して戦火を交える。政府軍はアメリカ軍の支援のもと、大規模な空爆で反乱軍の鎮圧に乗り出したが、その結果は反乱軍の武装集団化と戦線の拡大をもたらし、内乱は泥沼化する一方となった。略奪行為やレイプ、拉致、ありとあらゆる破壊と恐怖と憎悪と飢餓が全国を覆い尽くす苛酷な世界――本書はそんな、あらゆる常識や倫理観が徹底して崩壊してしまった世界を生きていかなければならなかった孤児たちの物語であり、上下巻に分かれた長編小説という体裁をとっているが、じっさいは上巻と下巻とでは中心となる人物が異なっており、それぞれ時間軸としては連続しているものの、別の物語としてとらえることもできる。

 上巻のサブタイトルは「孤児部隊の世界永久戦争」。ここで主人公として登場する佐々木海人は、戦争初期のアメリカ軍空爆の誤爆で父を失い、常陸市の歓楽街でホステスをしていた母親は、ある日忽然と消息を絶つ。武装集団化した反乱軍に拉致されたという話を聞いたが、幼かった彼にできるのは、長男として弟の隆と妹の恵を養いながら、なんとか自分自身も生きていくことだけだった。旧政府軍の武装集団に拉致され、使い捨ての少年兵として否応なく戦場で戦うことを強いられた海人は、あやうく全滅の危機を逃れて常陸市の家族のもとに戻ってくるが、今度は政府軍が徴兵年齢を引き下げ、彼に兵隊となることを強要する。そのとき、海人は十五歳。弟と妹にまともな生活をさせてやるためには、戦場で覚えた技術を生かすしかなかった。

 下巻のサブタイトルは「邪悪な許しがたい異端の」。ここでは舞台は常陸市周辺から首都圏に移り、主人公も海人ではなく、彼がかつて拉致された武装集団から逃れるさいに知りあった双子の姉妹、月田桜子と椿子へと移る。政府軍の孤児部隊としての地位を獲得しつつあった海人の庇護から離れ、戦場から戦場へ物資を運ぶトラック運転手として生計を立てていたふたりは、女兵士の死体を蹂躙しようとしていた政府軍兵士に反抗したことがきっかけとなって、あらゆる差別の根絶を目指す女の子だけのマフィア「パンプキン・ガールズ」を結成して武装化し、正規の政府軍とは独立した一派となった海人たちの軍隊とともに、泥沼化した内戦を終結させるための戦いへと身を投じることとなる。

 内乱という異常な状況のなか、まるでその環境に適応していくかのように、それぞれが武器や兵力、あるいは非合法な資金を利用し、その世界でのし上がっていくという話であり、また海人にしろ月田姉妹にしろ、常になんらかの武装勢力と対立し、戦闘をくり広げている。そういう意味において、本書の中心を成しているのはまぎれもない戦争であるが、人の命の価値がこの上なく軽い内戦状態という本書の背景世界が、そのままある種のヒューマニズムを喚起させるようなテーマとして掲げられているわけではない。むしろ本書の本質は、これまで私たちがあたり前のものとして疑うことさえしなかった価値観や常識が崩壊した無秩序な世界において、頼るべき両親のいない子どもたちが、どのような主観を獲得していくかという点であり、内乱といった設定は、そうしたテーマを掘り下げるための舞台装置にすぎないところがある。

 海人も月田姉妹も戦争孤児という点で共通した背景を負っているが、本書のなかの世界においては、本来であれば叱ってくれるはずの、規範となるべき大人が存在しない――むしろ、大人が子どもたちを一方的に蹂躙していくような理不尽な世界を、自身の判断で生きていかなければならないことを意味する。それは、子どもが子どもらしくあることを許さない世界であるし、そもそもそういったことが普通ではないと判断する社会そのものが崩壊している以上、何をもって常識であるかを判断することすらできないということである。

 本書を読み進めていくとわかってくるのだが、海人にしろ月田姉妹にしろ、どちらも大きな矛盾のなかで生きているところがある。それは、たとえば海人が孤児部隊に満足のいく給金を払うために、マフィアのドラッグを強奪して転売するという犯罪に手を染めていながら、一方では人身売買や略奪行為を禁じていたり、自身の部隊のために軍の規律をあえて破ることさえ厭わないという側面からも見て取れる。彼はけっして正義の味方ではないし、何らかの信念に基づいて行動しているわけでもない。義務教育を受ける機会すら逃し、漢字の読み書きもままならない海人にとって、自分の心がそれを受け入れることができるかどうかという、ごくごく単純な価値判断しかないのだ。ドラッグが犯罪という意識は、あくまで読者側のものであって、海人にとってドラッグとは経済活動というひとつの常識でしかない。そしてそれゆえに、彼のなかでは何人もの人間を殺すという残忍さがありながら、なお子どものような無邪気さが同居するという矛盾が生じている。こうした人物造詣を許すような虚構を築いていることに、まずは驚嘆せずにはいられない。

 月田姉妹もまた、矛盾を矛盾としてまるごと受け入れて生きているという意味では海人と同じであるが、彼女たちはむしろ、何らかの常識や価値観といった枠を設けることへの無頓着さがある。むろん、彼女たちもそうすることでしか生きていけなかったという事情はあるが、そうした生き方の根本にあるのは、ふたりが双子であり、自分と相手とを区別することへの無頓着さである。桜子が椿子であってもいいし、椿子が桜子であってもいい、という認識――自他の区分けすらしないという認識こそが、彼女たちの獲得した主観であり、混沌とした世界における適応の形なのだ。

「合法化して娼婦の権利と尊厳を守るべきだ。性差別と人権差別と年齢差別とあらゆる差別にぜったい反対。でもそういうのは、それぞれの局面でとる態度にすぎない。いまここで、世界の混沌に身を投じること、それがあたしたちの欲望」

 本書での主人公の立場は、一歩間違えばたやすく人としての道を踏み外しかねない、非常に危ういものであるが、彼らはそうした危うさのなかで、なかば綱渡りのような生をひとつの日常として生きている。そしてそんな彼らの姿は、そのまま社会として形を成せなくなった世界の姿でもある。この戦争を早期に終結させたいという思いは確かでありながら、その戦争が終わってしまったら、自身の生きる意味を失ってしまうかもしれないという矛盾――本来であれば規範となるべきだった両親への思いも含め、海人たちの目に映るこのうえなく乾いた世界の終わりなき姿に、どうか戦慄してもらいたい。(2010.06.08)

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