【新潮社】
『爪と目』

藤野可織著 



 長く読書を続けている人の宿命なのかどうかはわからないが、私の視力は現在0.4〜0.5のあたりを行ったり来たりしている。これでも子どものころは1.5はあったのだが、その頃に比べれば格段に落ちてしまったと言っていい。もっとも、まだ裸眼で本を読むのに大きな不便はない程度であり、ふだんの生活でも眼鏡が必須というわけではないのだが、自動車の運転など必要なときは眼鏡をかけることになる。

 さて以上のとおり、私にとっても眼鏡というアイテムは、今でもわりと必要なものとなっているのだが、もしこれ以上目が悪くなったとして、常時眼鏡をかける必要が生じたさい、眼鏡の代わりにコンタクトレンズを使うという選択肢はありえるだろうか、と考えたときに、まず想像するのは、自分の眼球に直接レンズを乗せるという行為にともなう恐怖である。生まれてこの方コンタクトレンズを使ったことのない私にとって、レンズをはめるというのは、生理的に受けつけないところがどうしてもあるのだ。だが同時に、それは結局のところ「慣れ」の問題でしかないのだろう、という気持ちも理解できる。たとえば私はよく献血をするが、腕の血管に針を刺すという行為について、私はとくに何も感じることはない。だが人によっては、その行為がどうしても受けつけられないことも知っている。

 コンタクトレンズをはめることにしろ、献血のために針を刺すことにしろ、それが日常の一部になってしまえば、いずれは慣れていくことになる。その適応力こそが人間の人間たる要素のひとつなのかもしれないが、重要なのは、たとえどれだけ慣れたとしても、その行為にともなう痛みがなくなるわけではないし、傷だって場合によっては残ることもあるだろう。本書『爪と目』を読んでふと思ったのは、人が持つ一種の鈍感さというものである。

 仕事は、好きでも嫌いでもなかった。――(中略)――勤めに出ないという選択肢が現実的でないので続けているだけだが、苦痛ではなかった。あるいは、苦痛であっても、慣れなければならない苦痛だった。眼球の上で少しの乾きと痛みを与え続けるハードコンタクトレンズのように。

(『爪と目』より)

 表題作のほかに二つの短編を収めた本書だが、文章の量からいっても、本書のメインとしてあるのは。芥川賞受賞作である『爪と目』だろう。そして、この作品でまず印象に残るのは、その人称の使われ方である。その冒頭で、いきなり「あなた」という二人称の呼びかけ形式の文章が続き、読者は一瞬、混乱させられる。そこには当然のことながら「あなた」とは誰なのか、という疑問があるわけだが、しばらく読み進めていくと、どうやらこの「あなた」とは、「わたし」の父親の不倫相手の女性であることがわかってくる。だが同時に、ここに出てくる「わたし」が、まだ三歳程度の幼児でしかない、という事実も見えてくる。

 父親の不倫相手、というふうに「あなた」と呼ばれる女性のことを書きはしたが、じっさいは、この物語のなかで「わたし」の母親は死亡しており、厳密な意味で不倫相手ではなくなっている。ただ、彼女が生きていた頃から二人の関係は続いており、そういう意味ではやはり不倫関係の女性であることに違いはない。そして本書のなかで、「あなた」と呼ばれる女性は父親と正式に結婚するかどうかを決めるため、半年のあいだ一緒に暮らしてみるという展開になる。

 あくまで三歳児の「わたし」によって語られる形式の本書であるが、この「わたし」という人物が、本当に三歳児の「陽奈」のことを指しているのか、という疑問は、本書全体をとおして常に読者に投げかけられる疑問のひとつである。というのも、この「わたし」という人称が、あまりにも三人称的な立ち位置で物事を捉えているところがあるからだ。まるで神の視点のごとく、「あなた」や自分の父親、さらには「あなた」の母親や、後に「あなた」の浮気相手となる「古本屋」の視点に入り込み、またその心情をまるで自分のもののごとく語っていくこの「わたし」を、単純に一人称の語り手として考えるには、あまりにも自分というものの希薄さが目立ちすぎる。それは、彼女が物語を語る時点では成熟した大人の女性であり、その視点から過去を振り返っているという設定が仮にあったとしても、本書において私たち読者が感じる違和感は変わらない。

 この「わたし」の個性の希薄さは、やはり三歳児という未成熟な精神を象徴していると考えたほうがしっくりくるものがある。まだ自他の境界線が曖昧であり、容易に他者の視点に自分の視点を混じりこませてしまうがゆえの、本書の奇妙な形式ということであれば、一応の納得がいく。だが、それでも彼女のなかに「痛み」を感じる「私」というものが皆無というわけではない。言い換えるなら、「わたし」がほかならぬ自分自身であることを確認するためのものとして、「痛み」というものがある。「わたし」のある種過剰な反応――たとえば、血が出るほど爪を噛むことや、際限なくお菓子を食べ続けること――は、「わたし」独特の自己表現でもあるのだ。そして、そんなふうに考えたときに重要になってくるのは、この「わたし」とそれ以外の登場人物との関係性がどのようになっているか、という点であるが、ここではじめて「あなた」という呼ばれ方の、けっして何者にもなりえないという印象が意味深いものとなってくる。

 「わたし」にとって「あなた」とは、将来自分の母親になるかもしれない女性である。しかしながら本書のなかで、「あなた」という呼ばれ方が変化する兆しはない。じつはこの女性には「麻衣」という名前があるのだが、それも浮気相手の「古本屋」のセリフから得たものであり、「わたし」にとって彼女は「あなた」という以外にない存在ということになる。しかしながら、話のなかで「あなた」は、かつて「わたし」の母親が更新していたブログを発見し、彼女のインテリアの趣味を模倣しはじめる。その結果、「わたし」のなかで唯一「母親」と呼んでいたさまざまな要素が、自分の住む世界に浸透し始めることになる。そしてやっかいなことに、「あなた」はそのことに気づきもしない。

 この「あなた」という女性といい、「わたし」の父親といい、本書に登場する人たちはいずれも「痛み」に対して鈍感だ。まさに上述の引用にある、コンタクトレンズを眼球にはめるかのように、日常の一部として埋没してしまっている。そしてそれは、多かれ少なかれ私たちにもあてはまる要素でもある。だからこそ、本書は読む者を非常に居心地の悪い気分にさせる。そういった感覚を引き出すことができる作品という意味では、本書は間違いなく文学的である。

 「痛み」に鈍感になってしまった大人たちと、そうではない子ども、という構図は、表題作のみならず、本書に収められた作品に共通するテーマだ。もっとも『しょう子さんが忘れていること』の中心人物はリハビリ専用の病院に入院中の老婆であるが、そのタイトルにもあるように、彼女はなかば「忘れている」ことを思い出すという役割を負っており、他の作品における「子ども」と同じ位置づけにある。はたしてあなたは、本書からどのような「痛み」を思い出すことになるのだろうか。そしてそのとき、あなたが感じるのはやはり「痛み」なのだろうか。(2013.09.30)

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