【中央公論新社】
『流れる星は生きている』

藤原てい著 



 人としてこの世に生を受けた以上、ただ生物学的に生きるのではなく、人間としての生をまっとうしたいという願いは、おそらく誰もが多かれ少なかれ持ちあわせている気持ちであるが、ではそうした気持ちが踏みにじられていると感じるのはどんなときなのかと考えたとき、まっさきに思い浮かぶのは、「同じ人間に人間扱いされていないと感じたとき」である。

 人は自我をもち、また先を見据える想像力を身につけることで、他の動物と比べて貧弱な体型にもかかわらず、地球上でもっとも繁栄することに成功した。だが同時に、高度に発達した社会のなかでしか生きられなくなった私たちは、ひとつの必然として同じ社会に生きる他者と共存することを運命づけられている。弱肉強食の厳しい自然のなかで、人はひとりでは生きていけない。だからこそ多くの人たちが寄り集まり、社会を築いていくことで生き延びる道を選んだ。人間の自我も想像力も、突きつめれば同じ種たる他者と協力して生きるための能力だと言える。

 つまり、他人に人間扱いされないというのは、その社会における自身の位置づけを失うことを意味する。そして人間社会のなかでしか生きられない私たちにとって、それは死にも等しいものである。ただ命を永らえていればいい、というだけでは、人は「人間として」生きてはいけないのだ。今回紹介する本書『流れる星は生きている』は、第二次世界大戦における日本の敗戦後、当時の満州に住んでいた日本人が故郷の日本に引き揚げるときの様子を綴ったノンフィクションであるが、そこには人がまぎれもない「人間として」生きることの意味を、深く考えさせられるテーマがたしかに存在している。

 世の中に残酷という言葉がある。――(中略)――あの人は自分で知らない大罪を犯している。人間のいかなる部分に加えられる残虐よりも食べられないということを自覚させるほど大きな罪はない。

 太平洋戦争末期の昭和二十年八月、夫とともに満州の首都新京に渡った語り手の著者は、ソ連軍の侵攻から逃れるために急遽、新京を脱出することになった。夫が勤める観象台職員の家族とともに疎開団を結成し、なかばわけもわからないままに列車に乗り、いったんたどり着いた朝鮮半島の宣川で日本の敗戦を知った一同は、アメリカ軍の統治する南へとさらに移動することを計画するが、そんな彼らを待ち受けていたのは、三十八度線に引かれた国境によって、いっさいの交通が遮断されたという知らせだった……。

 かつて日本が中国大陸に建国した満州については、たとえば須賀しのぶの『芙蓉千里』など、今でも小説の舞台として出てくることはあったものの、そこに住んでいた日本人たちが終戦後、つまり満州国が事実上崩壊した後、どのようにして故郷へと引き揚げてきたのか、という点については、本書を手にとるまでぼんやりとした知識でしか知らないことだったし、またとくに知ろうともしなかったことであった。だが、本書によって私が知ることになった敗戦下での引き揚げの実態は、まさに「壮絶」という言葉でしか言い表せないほど苛酷なものだった。

 ただでさえ著者たち日本人は、敗戦国の民であり、また中国や朝鮮の人々にとっては侵略した側の国民として、心中穏やかならぬものがあるはずであるが、疎開団の男たちの大半が平壌に連行されることになったあたりから、これでもかというくらいに不幸な出来事がつづいていく。地元の心ない者たちからの非難や子どもたちのいたずらなどは序の口で、貴重な金の盗難、食料の深刻な不足による栄養失調、発疹チフスやジフテリアといった病気、さらには長引く集団生活によって、少しずつぎくしゃくしていく人間関係や疎開団内での対立など、それこそ数えあげればキリがないほどである。

 それに加えて著者の場合、養っていかなければならない三人の子どもたちを抱えている。とくに一番小さな咲子にいたっては、まだ乳飲み子である。しかも頼みの夫からも引き離された状態にあって、その苦労が並大抵のものでないことは、想像に難くない。それこそこんな書評ごときではとうてい言い表せるものではないし、後に三十八度線を越えるために強行した引き揚げの過程については、まさに死と隣り合わせも同然の、およそ人間の尊厳がどこまで保てるかを試す究極の試練といっても過言ではないほどの苦難を体験することになる。

 誰がなんでもよい、ただ自分だけが一刻も早くこの町を逃げ出すことによって救われるのだという風潮は、明らかに日本人すべての頭にあり、人の物を奪っても逃げ出そうとするような醜い有様が、すぐそこでも見られる状態であった。

 人は極限状態に置かれたときにこそ、その人の本性が表われてくるという話をよく耳にするが、本書を読むかぎりにおいて感じざるを得ないのは、そうした人としての「醜い有様」というのは、およそ人であれば誰もが心に持ちうるものだということである。そこには国や種族といった違いはまったく意味をなさない。同じ日本人であっても、平気で弱者を切り捨てたり騙したりする性根の者たちがいるし、朝鮮人のなかにも他人に同情し、食料を譲ってくれたり、金の有無に関係なく病人を治療してくれる人がいたりする。なにより著者自身が、とにかく生き延びるためになりふりかまわぬ行動をとっている。そこにはおよそふだんの語り手からは考えられないような乱暴やことや、脅迫まがいのことをやっていたりする。それはけっして褒められたことでないのはたしかなのだが、他ならぬ自分が語り手のような境遇に置かれたとき、はたしてどれだけ人間らしさを保つことができるだろうか、ということを考えたとき、私たちは安易に本書に出てくる人たちを非難できる立場にないことを実感する。

 「人間として」生きることはおろか、生物としての命を永らえるということさえままならないような日常というのは、私にとってはまさに想像の外側にあるものだ。その日食べるものにさえ事欠き、わずかな蓄えさえ失って明日すらどうなるかわからないような混乱のなか――それこそ人が何人もあっけなく死んでしまったり、正気を失ったりするような環境のなかで、「人間として」生きることの困難さを圧倒的に表現した本書を前にすると、私のなかで生まれてくるどのような感想もその力を失ってしまう。ただ感じるのは、ピリピリするような緊張感、「人間として」生きられない人たちをまのあたりにしたときの、自分のなかにあるたしかな何かが揺らぎかねないという緊張感だけである。

 私たちは人間である以前に動物であり、そうである以上、どれだけ理知的であろうとしても、生命の危機を目の前にして、何より自分の命を守るために弱いものを踏みつけるような真似を、本能的にとってしまう可能性がある。そんななかにあって本書のような、あくまでその当時の状況にきちんとした目を向け、あのとき自分が何を思い、どのような行動をとったのかをきちんと書き記したことそのものもまた、ひとつの「壮絶」である。このうえなく醜く、しかしこのうえなく美しい人間というものを、まさにありのままに見据えた本書は、はたしてあなたの心をどんなふうに揺さぶることになるのだろうか。(2013.12.17)

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