【河出書房新社】
『嫐嬲(なぶりあい)』

星野智幸著 



 たとえば、「この世には男と女の二種類しか存在しない」という言いまわしがある。その区分は、肉体的特徴、生物学的役割という観点から見れば正しいのかもしれないが、話がこと人間のこととなると、複雑な思考概念を持っているがゆえに、単純に男と女に区別してしまうのは、いささか乱暴な考えなのかもしれない、と最近になってとくに注目されはじめた性に関する問題――たとえば性同一障害やセックスレスの問題など――に触れるにつれ、そんな思いを強くしている。そして、それは同時に、男と女の関係において必ずと言っていいほどつきまとってくる肉体関係の問題とも結びついてくる。人間は絶対的に孤独な生き物であるにもかかわらず、孤独でありつづけることに耐えられるほど強くはない。そして、言葉がコミュニケーションの道具としてはあまりに不完全であり、また他人の心を読み取り、共有するための力もない以上、人が自分以外の誰かとたしかに結びついている、という感覚――たとえ、それがかりそめの感覚でしかないとしても――を得るためには、肉体が有する五感を刺激しあうような結びつきに頼るしかない。

 だが、はたして本当にそうなのだろうか? それまで強固なまでに信じつづけられてきた男女の性にゆらぎが生じつつある現代において、これまでえんえんと続いてきた、言葉による中途半端な結びつきや快楽に基づく肉体的な結びつきとは異なる、心と体のより深いところで一体感を得られるような新しい結びつきが生まれてきてもおかしくはない、と考えることはできないだろうか。本書『嫐嬲(なぶりあい)』は、既存のイメージに縛られていた言葉の壁を打ち崩すことで新しい世界を生み出してきた星野智幸が、同じ言葉の力によって、男女の性を、そしてどうしても肉体に縛られてしまう人と人との関係に新しい光を差し込むために書かれた作品だと言うことができるだろう。

 本書に登場するのはグランデ、メディオ、プティの三人である。それぞれが(おそらくスペイン語だと思われる)大・中・小という意味で、当然のことながら本当の名前ではない。彼ら(あるいは彼女ら)にはそれぞれ固有の、それだけで国籍や性別まで推測できるような名前が別にあるはずなのだが、本書の中でそれらの名前が登場することはないし、そもそも本書のテーマを考えたときに、そのような名前の存在は無意味でさえある。彼ら(彼女ら)が何者なのか――それどころか、本書の舞台がどこであり、そしていつの時代のことなのかさえはっきりとしないまま、物語は著者独特の、まるで匂いたつような濃厚さを持つ比喩表現の連続で、幻想的とも言えるイメージの世界を再構築しながら進んでいく。

 比喩表現というのはもともと、既存の単語の意味では説明できないものを説明するために使われる表現であるが、本書においては、明確な説明を回避し、言葉による意味づけを無効にして新しいイメージを生み出すために使われている。それは著者の前作『最後の吐息』にも共通して言えることであるが、それゆえに、著者が生み出す物語を読むにあたって、私たちはまったく油断することができなくなる。言葉の中になんらかの意味を読み取ろうとすることに慣れてきった私たちは、あらゆる事柄が不鮮明なまま続いていく本書になんとか意味づけをしようとするあまり、どうしても立ち止まり、その言葉が意味するところのものを考えざるを得なくなってしまうからだ。

 まるで、すべてが幻想であるかのように進んでいく物語――だが、本書のなかでグランデ、メディオ、プティの三人が銭湯に入り、少なくとも肉体的な意味で男女の性が明らかになった時点から、本書の文章もまるで夢から醒めるかのように現実味を帯びるようになってくるのである。それは同時に、三人の登場人物を男女の性という枠の中に押し込めることを意味する。たとえ、プティが男でも女でもない「もと男」が好きであり、自分を女のおかまであると称していても、メディオが男にも女にも違和感を覚えるあまり、性行為に拒絶反応を示すという存在であったとしても、読者はプティ=女、メディオ=男という構図をとりあえず受け入れたうえで物語の展開を読んでいこうとする。すると三人は、まるでその読者の考える構図を壊そうとするかのように、世の中のさまざまなものの役割を骨抜きにしようと行動をおこすテロリストと化すのである。それはたとえば、二流映画のクライマックスをサーチライトで妨害してしまうという「スクリーン・ジャック」であったり、街路樹の葉を爆竹で吹き飛ばしてしまうという「街路樹爆弾テロ」であったり、銀行から金を強奪するのではなく、無理やり贈与するという「銀行強与」であったりと、およそ冗談のような活動なのだが、三人はまるでいたずらを楽しむ子どものようにそれらの計画を練り、実行に移していく。

 男という形式として私を見ず、私も相手を男に対する女と意識しないでいられるような関係を追求していくと、それは子ども化するしかあり得ないのではないかという結論に達したのだった。むろんそれは子どもと恋愛するという意味ではない。――(中略)――だから、グランデとプティとのまさしく子どもじみた毎日は、この世ならざる至福だった。何しろ、乾いた肌に触り触られるだけで、精神的に頂点を極めることができたのだったから。

 本書のタイトルにもなっている「嫐嬲」という漢字――男偏であっても女偏であっても、同じ「なぶる」と読むこの漢字をふたつ組み合わせたところに、本書のすべてがこめられている。男と女という二極的な区分を拒否し、この世の事象が持つ意味を骨抜きにするという、少なくとも三人にとっては崇高な行為を共有することで、男女の性を越えた精神的な一体感を得ようとした三人に、いったい何がもたらされることになったのか。それは本書を読んで確かめてもらうしかないのだが、世の中には想像妊娠などといった、精神が肉体を凌駕してしまうような症状が往々にして起こるものである。肉体という枷に縛られながら、複雑な精神構造を発達させてきた私たち人間が、肉体という枠を越えたコミュニケーションの可能性に気づくのは、意外と遠い未来の話ではなくなっているのかもしれない。(2000.03.31)

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