【筑摩書房】
『つむじ風食堂の夜』

吉田篤弘著 

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 今回紹介する本書『つむじ風食堂の夜』は、「月舟町」という架空の町が舞台の小説である。そしてこの町の大きな特長は、何かにつけて非効率的な点だと言うことができる。

 たとえば、そのタイトルにも出てくる「つむじ風食堂」というのは、じつは正式名称ではない。それは町の人々が誰ともなくそう呼んでいるだけであって、食堂のあるじは「名無しの食堂」を気取っている。つまり名前がない。

 しかもじっさいは安食堂なのに、なぜかレストランにあるような御大層なメニューブックが常備されている。だがその内容は、ごくふつうの定食のメニューだったりする。料理の名前だけが洒落たレストラン風なのだ。「コロッケ」を「クロケット」、「生姜焼き」を「ポーク・ジンジャー」というふうに。

 一人称の語り手である「私」は、町の人たちから「雨降りの先生」と呼ばれている。それは彼が人工降雨の研究をしているからであるが、彼自身は理系の研究者ではなく、むしろ文系の物書きだったりする。そして彼が暮らしている〈月舟アパートメント〉の階段は、一階あたり六段しかない。非常に急勾配で、上るのにも下りるのにも効率が悪い。さらに言うなら、語り手の借りている部屋は七階にあるが、なぜかそこは「屋根裏部屋」ということになっており、アパートは六階までしかないことになっている。

 他にも、まるで商店街の門のごとく道の両側に建てられている豆腐屋とか、唯一夜おそくまで店を開けている果物屋とか、ふつうに商売ということを考えれば無駄なことをしていたり、非効率的な造りの建物がとかく多いのが、この「月舟町」である。おそらく、その商店街はそれほど儲かってはいないだろう。むしろそんなんでちゃんと経営が成り立っているのかと心配にすらなってくるのだが、不思議なことに、本書に登場する人たちのあいだに、そうした不安をにじませる雰囲気はない。彼らは彼らで、そうした「非効率」を楽しんでいるような雰囲気さえある。そしてその雰囲気は、本書の読み手たちに、不思議な懐かしさを感じさせる。

 著者の吉田篤弘といえば、あの「クラフト・エヴィング商會」の人である。架空の品物を集めたカタログを、さぞ実在するかのように本にしたり、あるいは物語にしたりするそのセンスが私は大好きなのだが、そうした作品に接するさいに感じられる、ある種の懐かしさがどこから来るものなのか、という疑問が、以前からあった。

 結論から言ってしまえば、それは子どもの遊びを思い起こさせる懐かしさである。

 クラシックなタイプのエスプレッソ・マシーンには、言わば蒸気を発生させる機械としての側面があり、これを応用して巨大化すれば、あるいは「雨を降らせる機械」になり得るかもしれないと思いついたのである。――(中略)――妄想は想像であり、想像は創造に転じるから、どこかの工房の小さな作業台の上で、改造されたエスプレッソ・マシーンからひとひらの小さな雲が吐き出される日が来てもおかしくはない。

(『帽子と来客』より)

 本書の基礎にあるのは子どもっぽい妄想だ。たとえば、「名前のない食堂」というのはアイディアとしては面白いが、それを現実にやってみるとなるとさまざまな問題が発生するのは言うまでもない。「名前のない食堂」にしろ、屋根裏部屋のあるアパートにしろ、あるいは上述の引用にもある、エスプレッソ・マシーンを改造した降雨装置にしろ、現実には存在し得ないものである。なぜなら、それはこの世界では無駄なもの、非効率なものでしかないからだ。

 およそ本書にかぎらず、著者が手がける世界には、そうした非効率的なものが満ち溢れている。それは私たちの現実では、無駄なものとして切り捨てられるものだ。だが同時に、そうして切り捨てられていく「非効率的なもの」が、私たちにとって本当に無駄なものなのか、という命題が、そこには常に存在する。効率を最優先にする――それは突きつめれば、いかに効率よく金を稼ぐか、という点に集約されていく。そしてそれはあくまで経済の話であるはずなのに、なぜかその効率性が教育や政治の世界にも適用されつつあるように見える。

 たとえば、教育の効率性を考えたとき、それは「いかに良い成績をとるか」ということになるのだが、良い成績をとるためには、かならずしも人一倍勉強を頑張る必要はない。自分の成績をあげなくとも、自分以外の生徒の成績を下げることができれば、相対的に自分の成績は上がることになる。そしてもし、そのほうがより「効率的」であるとすれば、子どもたちはそのために努力することになるだろう。

 とかく効率性ばかりを追い求めることは、人間として大切な何かを切り捨てていくことにつながるのではないか、ということを考えたとき、私が本書に感じる懐かしさとは、私たちが大人になることによっていつの間にか切り捨ててしまった「非効率」なもののもつ、心の余裕であることに気づかされる。無駄なもの、非効率的なものがあるということは、それが存在することを許されているということでもある。そしてそれは、子どものころには何の考えもなしにやってきた遊びのなかに、常に含まれていたものだ。

 そうした要素をもっとも象徴するものとして、語り手の父親のエピソードがある。手品師であるという彼の父親は、まさに「非効率」をこのうえなく愛する人であり、またその「非効率」で人を楽しませる術を心得ていた人として、語り手の記憶のなかにある。そしてその気質は、語り手自身のなかにも確実に存在し、またそれが「月舟町」を含む本書の世界を支えてもいる。

 余計な知識と膨大な聞きかじりの堆積。
 生きれば生きるほど、「宇宙の謎」からはほど遠い、なんだかどうでもいいようなことに関する知識ばかり増え続けている。

(『手品』より)

 面白いものというのは、いっけん無駄なように見えるもののなかから生まれてきたりする。その大半は、あるいは夜中に書いたポエムのように、朝になって見返せばどうしようもない妄想の産物だったりするものだが、その無駄な妄想にこのうえなく惹かれてしまうのは、それが人間らしさにつながるものであるからだ。非効率的なものにかこまれたガラクタが生み出す、かつては誰もがもっていた美しいものを、ぜひ思い出してもらいたい。(2015.03.28)

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