【講談社文庫】
『姑獲鳥の夏』

京極夏彦著 

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 この世に幽霊や妖怪といったものが存在するのかどうか、あるいは、呪いや崇りといったものが本当に起こり得るのかどうか――これは、あるいは超能力やUFOのたぐいに置き換えても同じことだが、こうした超常現象と呼ばれる事柄で議論がおこなわれた場合、必ずといっていいほど個人がそれを知覚するかどうかの問題で、堂々めぐりを繰りかえす結果となってしまう。

 基本的に、人間のもつ五官というのは外部からの情報を脳に伝えるための装置であり、五官はそれぞれ忠実に仕事を果たしつづけている。だから、たとえば自分の目に映るものは、たしかにそこに存在すると考えられるし、逆に目に映らないものはたしかに存在しない、ということになる。だが、私たちが「目」という器官を通して見ている映像は、じつは脳が視神経から送られてきた情報を再構成した結果でしかない、という事実を考えたとき、私たちの五官からの情報は、多分に「脳」という検閲機関の影響を受けている可能性があり、しかも私たちの「心」は「脳」の影響がどの程度のものなのか、判断するすべを持たない。私が見ている風景と、赤緑色盲の人が見る風景とが異なっているのと同じように、頑なに幽霊の存在を否定する者には、たとえ本物の幽霊をまのあたりにしても、それはただの幻ということになってしまうし、また強迫的に幽霊の存在を信じる者には、暗闇の中の梢一本にさえ幽霊の姿を見ることになるだろう。

 私たちのいるこの世界は、あくまでその主体による相対的な世界の積み重ねであって、けっして絶対的なものではない。ゆえに、「この世に幽霊は存在するのか」と問うのではなく、「あなたは幽霊の存在を信じるか」と問うべきなのだ。本書『姑獲鳥の夏』というミステリーに用いられているトリックは、個々人がもつ脳と心の作用がもたらす世界の相対性――なにひとつ共通のものなどありえない、その人にとってのみ都合の良い世界どおしのせめぎ合いに着目した、ある意味では奇想天外な作品だと言えよう。そして、自分の脳でさえ無条件に信じられるものではない、という達観した視点を持ち得たとき、京極堂の放つこの言葉が生きてくることになる。

 この世には不思議なことなど何もないのだよ。

 京極堂という名前はもともと古本屋の屋号であり、当人には中祥寺秋彦という立派な本名があるにもかかわらず、誰もが彼のことを「京極堂」と呼ぶ。いつも小難しそうな顔で変な専門書や古い漢籍といった本を読んでいる、客に対して無愛想なところがいかにも偏屈な古本屋の主人らしいこの男が、彼の学生時代からの友人で、今はいかがわしい猟奇系雑誌に執筆して生計をたてている関口巽のもちこんできた「妊娠二十箇月の妊婦」「密室から姿を消した夫」というネタに対してぶつけることになる上述の言葉は、しかしそういった奇怪な事件を頭から否定するものではない。むしろ、京極堂がとらえる世界観にとっては、どんな不思議で奇妙に見える出来事も、何らかの必然性があり、起こるべくして起こったものとして解釈できてしまう、ということを意味している。

 実際、京極堂は関口との長い雑談のなかで、関口が常識だと考えていた絶対の世界観が、じつは多分に相対的なもの、あやふやでまったく当てにならないものであることを、あるときは民俗学の方面から、あるときは量子力学の方面から語ることになるのだが、これは同時に、関口という男を一人称とした、彼の目に映る世界を通して本書の物語を読んでいる私たち読者にも向けられたものだと考えていいだろう。そして、この時点からすでに、本書最大のトリックへの巧妙な仕掛けがはじまっているのである。

 本書のなかでは京極堂にしろ、今回の怪事件に探偵として関わることになる榎木津礼二郎にしろ、あらゆる意味で相当な変わり者――異端者の役割を負って登場する。いや、実際に、他人の記憶を普通に見ることができる榎木津も、そのことにさえ論理的整合性を見出してしまう京極堂も、たしかにどこか変人的な個性の持ち主であることは間違いないのだが、それは逆に言えば、そんな友人たちを見ている関口が、自分のことを常識人であると無条件に信じきっている、ということでもある。そしてそれは、必然的に私たち読者にも引き継がれる認識であろう。なぜなら、小説における一人称は、私たちと同じく常識の面から客観的にとらえられたものである、という暗黙のルールに則って私たちは小説を読むからである。まして、それがミステリーであればなおのことだ。

 だが、冒頭で私が述べ、また本書でも京極堂が述べているように、この世に絶対的な価値観など存在しないし、完全な「第三者」的な立場というのもありえない。こうした認識――ときには自分の脳にさえ疑いの目を向けるべきである、という懐疑主義のないままに本書を読み進めていくと、最後には私たちにとっての「目」である関口に裏切られることになってしまう。ネタばらしになるため多くは語らないが、本書で起こる怪事件は、じつは見る人が見れば事件でさえない、たったひとつの事実でしかなく、そのトリックもけっして目新しいものではない。ただ、そこに関口という要素が絡むことで、それは「過去をさかのぼって」まぎれもない怪事件へと変貌をとげることになるのだ。

 この事件はまさに、郡盲象を撫でるような事件だ。撫でている一人一人に話を訊いて全体像を掴もうなどとするから時間がかかる。だが<ああそれは象だ>と気づけば終わりだ。

 憑物筋、水子の霊、蛙の顔をした赤子、そして錬金術にホムンクルス――本書に頻出するこうした非科学的、前近代的要素は、あるいは現代の価値観でとらえるなら、まったく別の名前に置き換えられるひとつの常識でしかないのかもしれない。だが、それを信じる人たちにとってはたしかに怪奇であり、大きな意味を持つことになる。そういう意味では、昭和二十七年という時代背景も重要だろう。戦後の混乱と復興――古い価値観と新しい価値観とが入れ替わる過渡期には、しばしば不可解な事件が続発するものであるが、その原因のひとつは間違いなく、異なる価値観どおしの衝突がもたらすものだ。そして新生児の連続誘拐、妊娠二十箇月の妊婦、そして密室から消えた夫という怪奇をひとつの線で結びつけるのもまた、その当事者たちが持つ、多分に倒錯した、しかし本人にとっては唯一の真実である「子」に関する価値観であり、それはまさに、見る者にとってまったく異なる姿を成すという妖怪「姑獲鳥」そのものではないだろうか。

 山口雅也の『生ける屍の死』は、死んだはず人間が生きて行動するという、それまでのミステリーの常識を根底からくつがえした傑作であるが、本書もまた、語り手の「脳」がつく嘘という意味で、やはりひとつの常識を打ち壊した世界を生み出した傑作だと言うべきだろう。(2001.12.02)

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