【早川書房】
『ぼくは夜に旅をする』

キャサリン・マーシュ著/堀川志野舞訳 



 人はいつか必ず死ぬということ、そして一度死んでしまったら、二度と生き返ることはできないということ――これは、「絶対」という言葉が嫌いな私がほぼ唯一、ためらうことなく断言することができる事実である。人が死んだらどうなるのか、肉体が滅んだあとも、こうしてものを考えたり、自分が自分であると認識している意識は残るのか、残るとして、それはどこへ行くことになるのか、その答えを知っている者は誰もいない。そして、私がこれまでの書評を通じて何度かくり返してきたように、人は基本的に未知のものを怖れる生き物だ。人が「死」を忌み嫌うのは、死ぬというのがどういうことなのか、死んだ後どうなるのか、その真実が絶対にわからないからに他ならない。

 永遠に解くことのできない謎である「死」に対して、どうやって向き合うべきなのか、という命題が、これまでの人類の歴史において大きな関心事のひとつでありつづけたことは、人間が生み出した物語、とくに神話や伝承といった古いもののなかにさえ、死後の世界の存在が書かれていることからも見て取れる。人間の想像力は、そんな未知のものでありつづけるものに対してこそ、その真の有用性を発揮するのかもしれない、と思わせるほど、死後の世界のイメージは私たちのなかにも脈々と息づいている。たとえ特定の宗教を信仰していなくとも、天国や地獄といったもののイメージは、それが真実かどうかわからないにもかかわらず、なかば受け入れてしまっているところがあるものだ。これはよくよく考えてみれば、不思議なことであるし、また興味深いことでもある。

 本書『ぼくは夜に旅をする』に登場するジャック・ペルデュは、考古学部の学部長である父とともに、イェール大学の校内で暮らしている十四歳の少年であるが、ラテン語の翻訳にたずさわったり、多くの本を読んだりといったことは得意でも、人づきあいのほうは苦手で、なかなか友だちと呼べる関係づくりができずにいた。ある日、よそ見をしていて車にはねられたジャックは、幸いなことにたいした怪我もせずに退院することができたのだが、その交通事故以来、身のまわりで不思議な出来事と遭遇することになる。部屋のなかに見知らぬ男が侵入してきたかと思うと、ふいに目の前から消えてしまったり、意味不明な会話を耳にしたり――父のルイスはそんなジャックの様子を気にやんだのか、しばらくして息子をニューヨークに行かせることにした。知り合いの医師にあらためて診察してもらうという名目だったが、じっさいに訪れたジャックに対して医師が行なったのは、いくつかの質問とジャックの写真を撮るということだけだった。

 どうにも解せないものがあると感じたジャックだったが、ニューヨークに来ることができたのは、少年にとって特別な意味があった。かつてジャックと父親は、ニューヨークに住んでいたことがあったのだ。そのときは、母親のアナスタシアもいっしょだったが、彼女が不慮の死をとげたことがきっかけで、そこから離れることになったという経緯があった。帰りの電車を待つ時間を利用してグランドセントラル駅を見て回ることにしたジャックは、「ささやきの回廊」と呼ばれる中地階で、ユーリという女の子と出会う……。

 ギリシャ神話において、死んだ妻を冥府から連れ戻そうとするオルフェウスの逸話を意識して書かれたところがある本書であり、そうである以上、ジャックの行き先もまた冥府、というよりは、死後の世界ということになるのだが、彼は最初から死後の世界の存在を知っていたわけでもなければ、そこに行きたいという願望を明確に意識していたわけでもない。ユーリが幽霊であることに気づいたのは、すでに三途の川を渡ってしまった後のことであるし、そういう意味ではユーリにまんまとはめられた、という言い方もできなくはないのだが、本書のなかでジャックがいくつかの条件を満たし、生きたまま死後の世界に来てしまったという事実を考えたとき、この物語世界における死生観、生きている人間の世界と死んだ人間の世界との関係性について、なかなかに興味深いものが見えてくる。

「死を受け入れること――そして生きている人間との接触を断つこと――それは、エリュシオンに移動するために欠くことのできないステップなのだよ」

 本書を読んでいくとわかってくることであるが、じつは死後の世界においてもさまざまなルールがあり、そのルールを守らせるための番人すら存在する。そしてそれらのルールの根底にあるのは、死者をすみやかにエリュシオン――死者の魂が救われるという場所――へと移動させることにある。つまり、本書における死後の世界とは、生に何らかの未練を残した死者たちが、自らの死を受け入れるために一時的にとどまる場所にすぎないのだ。夜になれば、死者は地上に出て自由に跳びまわることができるし、誰に「とりつく」ことさえできる。だが、生きている人間に死者の姿は見えないし、たとえばヴィジャ盤(日本で言うところの「コックリさん」)といったオカルト的儀式を利用して生者との接触を図ろうとするものは、ルール違反ということで番人に罰せられる。本書において、生と死との境界は、じつはそれほど絶対的なものではなく、あくまで死後の世界の大原則に基づいて、そんなふうに思わせておく必要がある、ということにすぎないようなのだ。それはそうだろう。死んだ人間がそうそうたやすく生き返ってしまったら、それこそ大変な騒ぎになってしまうこと請け合いだ。

 自分がニューヨークの死後の世界にいることを知ったジャックは、そこにいるはずの自分の母親を探し出そうと決意し、ユーリはそんな彼のために手を貸すことになる。それは、あくまで母親の突然の死に今もなお心の整理をつけることのできないジャックの都合ではあるのだが、同時に自身の死をどうしても受け入れられず、生者の世界に強く焦がれずにはいられないユーリの都合も混じっている。生者の世界において、生者との関係をうまく結べないジャックと、死者の世界において死者との関係をうまく結べないユーリ――そういう意味では、ふたりはお互いによく似たもの同士ということになるのだが、このふたりが今回の出来事をとおして、何を思い、どのような決意をするのかもまた、本書の読みどころのひとつとなってくる。

 今回のジャックのように、ごくごく稀に、生者が生きたまま死後の世界に来ることができるということは、逆に言えば、死後の世界においてそうしたシステムが必要だということを意味する。三日という期限を越えると、二度と生きて戻ることができないという制限のもと、はたしてジャックは母親を探し出すことができるのか、そして最終的に、彼が何を望むことになるのか――生者と死者との関係性、ごく近しいように思えながら、やはり絶対的な部分で異なってしまっている存在との禁断の交わりを、現代風のユーモアもまじえて描いた本書をぜひ楽しんでもらいたい。(2010.06.12)

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