【文藝春秋】
『夏の砦』

辻邦生著 



「芸術とは何か」という問いに簡潔に答えるとするなら、それは創作活動だと言うことができるだろう。画家は絵を描き、詩人は詩を詠み、作曲家はメロディーを、小説家は物語を作り出す。それは、まぎれもなく「何かを生み出す」行為であることに間違いないが、たとえば農作物や家畜を育てたり、家を建てたり、衣服を縫ったりするといった行為とは一線を画するものでもある。

 一般に、「芸術」と呼ばれるものが生み出すものは、人間の生活とは無縁のもの――極端にいえば、それがなくても人が生きていくうえで支障をきたすものではない、あってもなくてもよいもの、という程度のものと認識されているが、ならばなぜ、ラスコーの壁画を例に挙げるまでもなく、人々は太古から、およそ実用性のない芸術というものを創作しつづけ、またその芸術に惹かれずにはいられないのだろうか。そして、そうした芸術を生み出す力、芸術を愛する力は、いったいどこからやってくるものなのだろうか。
 もし、その答えが存在するとすれば、それはまさに本書『夏の砦』の中にこそある、と言ってもいいだろう。そしてそれはまた、ひとりの女性がまぎれもない自分の生、自分だけの世界を取り戻す過程そのものでもあるのだ。

 そのひとりの女性――北欧のとある街に織物工芸の研究のために訪れていた支倉冬子は、本書開始時にはすでにその消息を絶ってしまっている。本書では、その街で冬子と知り合った出張エンジニアが、彼女の書き残したノートや日記、手紙などを参照しながら、彼女の内面に迫っていこうとする章と、支倉冬子自身による過去の追憶を書いた章との混交によって成り立っている。そういう意味で、本書はたしかに、支倉冬子という名の記号――織物工芸に携わっていた日本人の女性という記号を、その内側と外側から見つめなおし、再構成することで、まぎれもなく生きたひとりの人間として甦らせるために書かれた作品だと言える。

 じっさい、冬子の手による手記や追憶のなかには、圧倒的なまでに情景描写が多い。それも、たんに見たままを表現するだけでなく、音や臭いや手触りといった感覚を駆使してそのイメージをふくらませ、その中に巧みに彼女自身の思いを織り成すことで、彼女の過去をリアルに喚起しようとしているのだ。そして私たちは、本書を読み進めるにつれて、確実に支倉冬子がたどった生涯を追体験し、支倉冬子と一体になっていく。

 序章において、絆創膏の罐に入れ、池の底に大切に隠していた蛇の卵――冬子にとっては何よりも大切な宝物は、裏の庭の友達、その時期の冬子にとってほとんど唯一といっていい「他者」の価値観では「気味悪い」蛇の卵でしかない、という客観的事実の前に打ちのめされ、冬子は自らその宝物を捨ててしまう。それが同時に、その後に起こる祖母や母の死によって決定づけられる圧倒的な事実への迎合、自分がこの世界をどうとらえているか、という瑞々しい感性が生み出す「自分の世界」の放棄を象徴するものであることは、おそらく容易に想像できることだろう。もともと空想的な性癖を持ち、自分以外の事物に対して感受性の強い彼女が、その後、母と同じように織物工芸にたずさわるようになるものの、「創作」という行為ばかりが空まわりしてしまい、ついには彼女が迎合しようとしていた事実そのものからもはじき出されてしまうこと、まるで太陽の光のように奔放なエリスとの邂逅によって、自分がかつて捨ててしまった過去を喚起され、徐々にそれを取り戻していくことは、本書の内容に沿う流れであるが、その流れのなかで、北欧の街、ギュルデンクローネの城館、そして仮面舞踏会で起きたある事件などが、まるで彼女自身の過去と呼応するかのように、徐々に結びついていく構成は、見事だというほかにない。
 そして、その中心にあるのは間違いなく、支倉冬子が「自分の恣意をこえるもの、確乎とした美の必然性」の象徴とみなしていた「グスターフ侯のタピスリ」である。

 そこにはこの布地やガラス・ケースや陳列室をこえた別の世界――異様に澄んだ甘美な別世界が、ちょうど水の底にゆらめき現われるように、現出しているのでした。――(中略)――自分の見ているのが糸を織ってつくった布地にすぎぬことも忘れました。私は、そうしたものの中を通って、不意に、その向う側へ出てしまったのでした。

 かつて、はじめてこのタピスリを見た冬子が抱いたのは、ただの古い、色あせたタピスリ、ただの布地でしかなかった。それがひとつの「別世界」を創造するにまで変化した背景には、芸術と実用性の問題がからんでいる。先程、私は「芸術は人間の生活とは無縁のもの」という一般論を述べたが、しかし絵画にしろ、音楽にしろ、もともとはまぎれもなく実用性から発生したものではなかったか? それは、どのような形態にしろ、「誰かに何かを伝えるため」にこそ存在しているのである。かつてはそれが、人間が生き延びるのに必要な情報であっただけのことなのだ。

 支倉冬子は、彼女にとっての「自然」であるエリスとの出会いによって、感性による自分の世界を――誰もがその五官でとらえているミクロコスモスを、客観的事実で構成される世界そのものと融合させた。それと同じように、今は個性による力技で生み出さなければならなくなった「芸術」を、かつては実用性から生じ――パルテノン神殿がかつてはトルコ軍の火薬庫であったように――自然と一体であったはずの「芸術」の形へと還元していくことこそを、本書は目指したのではないだろうか。だからこそ、本書はこれほどまでに情景描写が多いにもかかわらず、これ以上はないというくらい洗練された、まったく無駄のない文章構成を保っているのではないだろうか。

『夏の砦』という名のタピスリ――実用と芸術、客観的事実と自己の内面世界との見事な調和を織り込んだ本書は、はたしてあなたにどのような「別世界」を見せてくれるだろうか。(2001.07.25)

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