【文藝春秋】
『夏のロケット』

川端裕人著 
第15回サントリーミステリー大賞優秀作品賞受賞作 

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 大きな夢に満ち溢れていた子供の頃――そう、どんな夢でも努力さえ怠らなければ必ず叶うのだ、と純粋に信じることができた時期が、誰にでも一度はあったはずだ。悲しいことに、そういった夢の大部分は、あまりにも高い現実的壁の前にもろくも砕け散ってしまうのだが、ごくまれに、そんな壁をも乗り越えて、夢の実現を目指して走っていける者たちもいる。
 本書『夏のロケット』を読み終えて、私はふと考える。あたり前のように子供のころの夢をあきらめてしまう、ごくふつうの人達と、本書の登場人物たちとの間に、いったいどんな違いがあったのだろうか、と。

 本書の主人公である高野は、今でこそ某新聞社の科学部に所属している新聞記者であるが、高校生の頃は、自分と同じように宇宙開発やロケットに興味を持つ同志とともに「天文部ロケット班」を結成、自分たちの手でロケットを作成し、打ち上げ実験をしてしまうほどのロケットマニアだった。

 「いつか火星まで行けるようなロケットを作ろう」を合言葉に、まさに非合法なローンチを繰り返した青春時代――結局、実験は一度も成功しないまま、高校卒業とともにロケット班は解散、仲間はそれぞれ別の道を歩むことになるのだが、それから十年以上も経ったある日、ある過激派組織が、かつてロケット班が作っていたロケットの設計とよく似た構造の小型ミサイルを作ろうとしていることを知った高野は、その事件を追ううちに、再びロケットを打ち上げるために集まった、かつての同志たちとの再会を果たすことになる……。

 「夢はきっと叶えられる」「努力はいつか報われる」――こんな、あたり前の言葉が空しい響きしか持たなくなり、暴力やセックス、異常心理とかいったテーマを扱う小説が横行する今の世の中において、同じ志を持つ仲間達が時を経て再び集まり、さまざまな困難を乗り越えて、ひとつの大きな目標のために努力を続ける姿を見事なまでに描き切った本書の存在は、読む者にある種の感動を与えてくれるという点をとってみても、非常に貴重なものである。そう、すでに三十年以上も前にその製作技術が確立されてしまったロケット製作が、もはやハイテクでもなんでもないのと同じように、ロケット班のメンバーたちの「火星へ行くためのロケットを打ち上げる」という目標も、もはや夢物語ではなく、実現可能な目標のひとつであり、あるいはたんなる通過点でしかなくなっているのだ。宇宙開発やロケットに関するさまざまな知識を豊富にちりばめた本書を読んでいると、本当に近い将来、誰かが個人で火星行きのロケットをつくってしまいそうな気になってくるから、なんとも不思議だ。

 もちろん、誰もが高校生のときのように純粋な気持ちでロケットをつくっていたわけではない。ロケット製作に関して天才的な才能を持ち、宇宙開発事業団の開発部に入ったにもかかわらず、上司に嫌われて左遷させられた教授こと日高紀夫、独自に新素材を開発し、その性能を実証してみたいと考えている清水剛太、ロケット製作を、あくまで次のビジネスとして成立させようとしている商社マンの北見祐一、そしてミュージシャンとして新たなひらめきをロケット製作に求める氷川京介――それぞれがそれぞれの打算をもって再結成された「ロケット班」だが、心の底にある想いは、きっと同じだったに違いない、と私は考えている。というより、そうでなければきっとロケットの打ち上げなどという大それた計画は、実現しなかったのではないだろうか。

 体が震えた。ロケットがいま、ぼくの昔からの友人を乗せて宇宙へと飛び出していったのだ。地上でそれを見上げているぼくたちが、みじめなくらい卑小な存在であると思えた。なのに卑屈な気持ちになるのではなく、逆にぼくは限りない宇宙に心を開いた。子供の頃から心のなかにくすぶり続け、大人になるに従って多少は屈折した形で心の奥にしまいこむようになった宇宙への憧れが、この瞬間、一気に解放されたみたいだった。
 火星ですら通過点にすぎないんだ、ぼくは強く思った。もっと遠くまで行きたい。宇宙の果てまでロケットを飛ばしたい。いや、自分がそのロケットに乗ってどこまでも飛び続けたい。そんな欲望が激しくぼくのなかで渦巻いていた。

 誰もが一度は思い描く、途方もなく大きな夢――本書はそんな、私たちが「心の奥にしまいこむようになった」夢の形を、あらためて思い出させてくれる貴重な一冊になってくれるに違いない。(1999.05.30)

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