【文藝春秋】
『新麻雀放浪記』

阿佐田哲也著 



 基本的に、ギャンブルというのは胴元が一番もうかるようなしくみになっている。もしあなたが金儲けを主体にギャンブルを考えているのであれば、ギャンブルをする側ではなく、させる側、つまり自分が胴元になるのが賢い選択だと言えるだろう。旧文部省だってそのことを知っているからこそサッカーくじの胴元になることを決めたのだし、宝くじにしろ競馬にしろ、ギャンブルという一点をとらえるかぎり、その基本は変わらない。

 だが、それでもなおギャンブラーとして、あくまでギャンブルをする側に立ちつづける者たちがいる。ばくち打ち――ギャンブラーという言葉には、たとえば大勝したときの快感が忘れられず、借金をかかえて身を持ち崩してしまうギャンブル中毒とは微妙に違ったニュアンスを含んでいる。いや、たしかに彼らはギャンブル中毒ではあるが、その価値観の根本にあるのは金ではない。といって、金をかけないギャンブルを奨励しているわけでもない。ギャンブラーにとって、金とは、自分の魂を燃え立たせるたたせるもの、命を削るような真剣勝負をするための道具でしかない。そこにあるのは、トータルな視点に立ったときに必ず儲かるようになっている胴元――人間の欲望をうまく操作して「商売」している力ある者たちをだしぬいて、人生のトータルで大勝してやろうという欲望なのだ。

 本書『新麻雀放浪記』は、かつて「坊や哲」と呼ばれ、バクチ稼業に明け暮れていた筋金入りのギャンブラーの青春時代を描いた『麻雀放浪記』四部作の「その後」に位置づけられる作品である。なにせ、主人公はもう四十という年齢の中年になってしまっているのだから。人生のすべてであったはずのギャンブルからも久しく遠ざかったまま、といって真面目に社会人として働いたり、何か別のことに精を出しているわけでもなく、ただその日その日を無為に過ごしていた彼はある日、煙草を盗もうとしてつかまった留置場で、同じく万引きでつかまったひとりの学生と出会う。自分の強運に絶対の自信をもつその青年の存在は、なぜか彼の心に久しく忘れていた、ギャンブルへの闘志に火をつけることになるが……。

 そのタイトルからもわかるように、本書は麻雀をはじめとして、競艇、サイホン(壷の中のサイの目をあてるギャンブル)、ブラックジャック、ルーレット、バカラなど、さまざまな種類のギャンブルが登場し、競争相手と、あるいは胴元と鋭い心理戦を繰り広げていく。それぞれのギャンブルとしての特性を理解し、そこを逆手にとっていかに競技相手を打ち負かすか――ギャンブルを扱った小説やマンガの醍醐味はさまにその手に汗握る駆け引きの妙にあると言ってもいいのだが、この手のジャンルは、ある意味で読者を選別してしまうことは否めない。たとえば、麻雀のルールを知らない人が本書を読んでも、その奥深さの半分も理解できるかどうか。

 私自身、麻雀はけっして強いほうではなかった。しばしば自分の手をよりよいものにしようと腐心するあまり、場全体の雰囲気、風の流れ、また今自分が何位で、ゲームは何局目で、相手がどんな手を揃えようとしているのか、あるいはオリているのか、といった、全体を読みとる力が不足していたからだ。それでも、かつて麻雀をやったことがあるからこそ、本書のなかに印刷されている麻雀牌の並びの意味がわかるのである。

 最近はすっかり麻雀から離れてしまったし、またあえて麻雀をしたいと思う相手とも恵まれていない。そして、麻雀は一人ではできない。ゲームセンターに行けば脱衣麻雀ゲームがあったりするが、ああした二人打ち麻雀は役が揃いやすく、にもかかわらず、たとえ手が安くてもいいからとにかく早くアガることがセオリーなので、ゲームとしての魅力には欠ける。本書を読んでいて思い出したのは、かつて麻雀に精を出したことのある者であれば誰でも知っているその奥深さであり、麻雀を含めたあらゆるギャンブルが、人間どおしのもっとも生々しい、しかしだからこそ人々を惹きつけずにはいられない、強力なコミュニケーションの場である、ということだ。

 相手の裏をかく、巧妙に罠を張り、相手を陥れる、これまでのパターンをあえて崩してみる――そこにはけっして言葉ではない、しかしお互いに相手のことを理解しようとするコミュニケーションが存在する。なぜなら、ギャンブルに勝つために必要なのはテクニックではなく、相手の心理を読む洞察力であり、自分のツキの上昇や下降を的確につかみ、勝負時であるかどうかを見極める勘であるからだ。そしてそれは、自分自身を理解し、他者を理解することに他ならない。たとえそれが、自分の勝利をもぎとるための手段であったとしてもだ。

 ばくちはそういうもんだ。当りだすと先が見える。見えているうちはバランスの限度までいけ。見えなくなったら一銭でも惜しめ。誰だってツクことはあるが、問題はツキを利用していくら勝てるかだ。

「坊や哲」が「ヒヨッ子」呼ぶようになった、留置場で出会った青年に、ことあるごとに言い聞かせているこのセオリーは、たとえ九割がたで負けていても、一割の勝ちで九割をチャラにできる以上の儲けを得ることである。ギャンブルには常にそうした「一発逆転」というチャンスがあるわけだが、問題はそのためにどれだけ自分の勘を研ぎ澄ませてきたか、ということである。そしてそこにこそ、真のギャンブラーとしての生き様を見ることができる。

 本書全体をひとつのギャンブルと考えたとき、なかなか思うように勝つことのできなかった前半で「坊や哲」がどのような戦い方をし、そして後半、マカオのカジノで自分のツキが上昇していることを感じ取った彼が、どのような戦い方をするか――彼自身が身につけたギャンブルのセオリーの集大成とも言える本書『新麻雀放浪記』、もし、一生という人生のなかで大勝したいとお考えの方がいらっしゃるなら、ぜひ手にとってみるべきである。(2001.05.02)

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