【文藝春秋】
『人間を守る読書』

四方田犬彦著 



 以前、機会があってケータイ小説を書籍化した作品を読んだことがある。そのとき私が読んだものは、高校生たちを登場人物とするラブコメ小説で、書籍化されたのはその最初の二章分だけだった(それ以降の部分は順次書籍化される予定らしい)。基本的に物語が完結していないと正しい書評は書けないという信条をもっている私は、その後の話の展開を知るために、携帯電話でネットに接続、作品の続きは携帯電話の画面から読むことにしたのだが、そのときひとつ気づいたのは、本という形でケータイ小説を読んだときに感じた違和感が、携帯電話の小さな画面で読んだときにはまったく感じられず、スラスラと話の筋を追うことができたという点である。

 ケータイ小説を書籍化するとき、その形態は横書きの左開きとなり、日本語の小説を読むときの基本である縦書き・右開きの形態とは逆になる。これは、もともとケータイ小説が英字主体の文化から生まれたネット上に掲載されたものだからであるが、私が書籍化されたケータイ小説を読んだときに感じた違和感は、ただその製本上の違いのせいだけではない。本を読むときと、携帯電話の画面に表示される文字を読むのとでは、あきらかに頭の使い方が異なるのだ。本を読むときは、ページを開いたときに目に飛び込んでくる文字数は多い。たとえ、文章を一文ずつ目で追っていったとしても、頭のなかでは自然とその前の文脈とのつながりを考えながら読んでいるし、つながりが分からなくなれば即座に文章を遡ったりもする。携帯電話の画面の場合、一度に表示できる文字数はぐっと少なくなる。そして、ボタンを操作して画面をスクロールさせるという読み方をするため、文章は必然的に、パッと見て把握できるということに特化されることになる。ケータイ小説が多分に会話文と現象の説明だけに終始しているのは、何より携帯電話で文章を追うときのストレスを極力減らすという目的ゆえのものだ。

 ようするに、携帯電話で小説を読む場合、本を読む場合と比べて、さほど頭を使う必要がないのだ。最低限、話の流れと登場人物がわかればいいのだから、携帯電話の画面であれば流し読みができてしまう。それゆえに、私にとってのケータイ小説というのは、あくまで暇つぶしの域を出ないものであるのだが、そう考えたとき、本という形態でそこに書かれた文章を読んでいくという、自分が毎日あたり前のようにやっている行為について、つまり読書とはどういうものなのか、ということについて、あらためて問い直す必要があるのかもしれないと思うようになった。

 本を読むさいにもっとも理想的な読み方とは、勉強とも仕事とも無関係に読むことである。ただ好きな本だけを気の向くままに読み、途中で飽きたら放り出し、またその気になったら手に取り直すといった、気ままな戯れのうちに読むこと。

 本書『人間を守る読書』は、おもに著者が読んだ本の紹介文を集めたもので、その数は155冊におよぶ。ひとつひとつの紹介文は、けっして長いものではないし、ときには本のことではなく、作者自身に言及していることもあるのだが、にもかかわらず面白い。そこには、それまでただの広大な砂漠にしか見えなかった風景のなかに、美しい水と緑を湛えたオアシスをいくつも見つけ出すかのような、スリリングな発見があり、私たちの知的好奇心を刺激してやまないものがある。

 本書のなかでカバーしている本の分野は、じつに多岐にわたる。古典名作もあれば漫画もあり、小説もあれば展覧会で販売されるカタログについて語っていることもある。ジャンルについてもさまざまで、映画、音楽、演劇、詩歌、写真、サブカルチャーなど枚挙にいとまがないほどであるが、何よりこの雑多な分野にかんする、けっして通り一遍等でないたしかな知識をうかがわせる文章が、本書の大きな武器となっていることは間違いない。

 本の紹介文、と書いたが、著者の書く紹介文は、たんに紹介文と書いてしまうのをためらわせるようなものがある。なぜなら、その紹介文は、紹介文でありながら、私たち読者の大半が思いもしなかったような視点を与えてくれるからである。もちろん、著者自身が多岐にわたる分野の知識をもっている、ということもひとつの要因であるが、ただ知識をもっているというだけでなく、その雑多な知識を読書をつうじて、さまざまな思索のために利用し、いっけん何の関係もなさそうなところにつながりを見出そうとする思考のはたらきが本書のなかには見てとれるのだ。それも、けっして難しい専門用語を用いたりはしない。使うとしても、その単語を自分の言葉で説明することを忘れない。これは、さまざまな知識をただの薀蓄ではなく、自分の血肉としていなければできないことで、そうしたところで著者の真摯な態度がうかがえる。まさに「ただ好きな本だけを気の向くままに読」んだ読書家の姿が、そこにはある。そしてそれゆえに、著者の思考はときに私たちがとらわれがちな常識や価値観について、ゆさぶりをかけていく。

 石田一志『モダニズム変奏曲』のなかで、日本人の音痴が日本の伝統的な音階に親しんできた人たちであり、西洋音楽に抵抗を示す現象ではないかと喝破し、秋山邦晴『現代音楽をどう聴くか』で、日本人の音楽受容の幅の狭さを嘆く。また長谷邦夫のパロディ漫画を取り上げて、現代の漫画がただの消耗品となりつつある現状を示唆し、折口信夫の同性愛問題を取り上げては、日本に今もはびころ同性愛嫌悪の土壌がどれだけその研究をゆがめているかを指摘する。じつに刺激的な要素に満ちた本書を読んで、私はあらためて読書の本質について考えずにはいられなくなる。

 19世紀ドイツの哲学者ショウペンハウエルは『読書について』のなかで、本を読むことは「他人の考えた過程を反復」することにすぎないと述べている。これは、ただ読書するだけで終わるのではなく、そこからさらに自分の考えをもつこと、思索することの必要性を説いているのだが、著者にはたしかな自分があり、ただ知識を借りてくるだけでなく、その知識をたしかな自分のものとして昇華させるだけの力もある。じつは上述の引用文にはつづきがあって、「読んでいるうちに、あれはこうだろうとか、これはどうだっけなといった考えが浮かんできて、思いもよらぬアイデアに結実することがある。」と書かれている。「魂は気ままに遊んでいるように見えて、実は見えないところで探究を続けていたのだ」と。ともすると、書評を書くために本に読まされているように感じてしまう私にとっては、ずいぶん心休まる言葉である。けっして無理をすることはないのだ、と。

 本書のなかで、人間を豊かにする読書とは、「読み直すに値する本をみつける」ことだと著者は語る。私のなかでこれに該当する本が、はたして何冊あるのかはまだはっきりとしていない。ただ、機会があって三田誠広の『いちご同盟』を再読したとき、この作品に登場するふたりの少年が、いみじくも死と生の象徴として機能しているのではないか、という新たな発見があった。そしてそのとき、読書というのは本当に興味の尽きない行為なのだという実感するにいたった。本を読むことの本質について、認識をあらたにしたい方は、ぜひ一度本書を手にとってみてほしい。(2008.01.08)

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