【早川書房】
『わたしを離さないで』

カズオ・イシグロ著/土屋政雄訳 



 今さら隠し立てすることでもないのでこの場に書いてしまうが、以前私は小説家になりたいと考えていたことがある。当時の私としてはけっこう真面目にその夢を実現させようと考えていたし、それなりに作品らしきものを書いていたこともあったのだが、いくつかのちょっとした挫折が重なった結果として、今はもう小説を書くという行為からは完全に離れてしまっている。なぜ自分があれほど「小説を書く」ことに心血を注いでいられたのか、「自分にも小説が書ける」という、その根拠のない自信の源が何だったのか、今ではもう思い出せないほど遠い昔の話であるが、小説家になること、小説を書くことをあきらめた理由であれば、ある程度の見当がついている。それは、現実というものを見せつけられたからに他ならない。

「現実の厳しさ」という言葉をよく聞く。ここで言う「現実」とは、より多くの人たちによって成り立っている大きな社会のことだ。たとえば、学校やサークルといった限定的な世界のなかであれば、私のようなごく個人的な願いもある程度は実現できるし、私自身もそれで満足していられることもできたかもしれないが、私たちが生きていく「現実」は、より多くの人たちによる評価や利害が複雑に絡み合う世界である。そうした現実を前にして、なお自分の才能を信じつづけることが、私にはどうしても無理だった。格好よく表現するなら、現実によって私の夢は疲弊し、擦り減ってしまった、ということになる。

 私のなかにかつてあった「小説を書きたい」という欲求は、今はもうないし、そのことに未練もない。だが、たとえば私が不屈の意志でもって、小説を書きつづけていたとしたら、はたして私は小説家になることができただろうか、とふと考えることがある。そして、そんなことを考える意味として、はたして自分の生涯は、生まれたときから運命づけられているのか、あるいは意志の力によっていくらでも変えていけるものなのか、という問いかけがある。もし小説家になりたいと思うのなら、たとえどんな手段を使っても小説を書きつづけ、「現実」に対して自分が小説家であることを認めさせるという戦いをつづけるのではないか。そして、それができなかったということは、けっきょくのところ私の欲求は、ただの夢物語にすぎないと心のどこかで自覚していたのではないか、と。

「何をいつ教えるかって、全部計算されていたんじゃないかな。保護官がさ、ヘールシャムでおれたちの成長をじっと見てて、何か新しいことを教えるときは、ほんとに理解できるようになる少し前に教えるんだよ。――(中略)――きっと、おれたちの頭には、自分でもよく考えてみたことがない情報がいっぱい詰まってたんだよ」

 本書『わたしを離さないで』の語り手であるキャシー・Hは、病院や回復センターと呼ばれるところで十年以上も介護人をつづけている女性である。もうすぐその介護人を免除されるという彼女が、それまでの自身の人生を振り返る、という形で進行していく本書は、大きく三つの章に分けることができる。ひとつはヘールシャムと呼ばれる、全寮制の学校を思わせる場所での思い出、ひとつはそれから少し年齢が上がり、「コテージ」とキャシーが呼んでいた、別の施設に移ってからの思い出、そして最後は、彼女が施設を卒業して介護人になってから、現在に至るまでの出来事。キャシーの口から語られていく物語は、彼女がヘールシャム時代からの親友であるルースやトミーを中心に築いていった、それこそ私たちが学校などにおいて体験してきたのとさほど変わらない、ごくごくありきたりな施設での思い出であり、意見の対立や喧嘩をしながらも、仲直りを繰り返すことで育んでいった友情の記憶でもある。だが、ふと語り手の現在に戻ってきたときに、そのふたりが「提供者」として、彼女の介護を必要としていたという事実がオーバーラップしていくというところから、少しずつ奇妙な違和感が見え隠れするようになる。

 たとえば、ヘールシャム時代の語り手たちが、外の世界との交流がほとんどなく、また外の情報に触れる機会もあまりなかったということ。たとえば、彼らを指導する人たちが先生や教師ではなく「保護官」と呼ばれていたこと。毎週にように行われていた健康診断や、図画工作にとくに力を入れていた授業、それらの作品のなかでも、とくに優秀なものが展示されるという「展示館」のことや、しばしば出てくる「介護」や「提供」という言葉のこと――この物語のなかで、ごくあたり前のことのように出てくる言葉は、しかし読者である私たちにとっては、おそらく説明を要する言葉であるはずなのだが、あくまで当事者であるキャシーの一人称によってつづられていくなかで、それらの言葉に対する説明は注意深く避けられていく。はたして、ヘールシャムとはどのような施設だったのか、そしてキャシーをはじめとして、多くの子どもたちをこの施設に閉じこめておく理由は何なのか。

 何か特殊な目的で建設され、そして何か特別な目的で育てられている子どもたち――その驚嘆すべき全容について、この書評のなかで明らかにすることは避けるが、読んでいくうちに少しずつ「ひょっとしたら」と思わせていく、その抑制の利いた文章力が見事な本書は、抑制が利いた文章であるがゆえに、私を途方に暮れさせる。彼らに課せられた運命はこのうえなく過酷なものであり、それはともすれば、私たちが生きていく意味について正面から向きあわなけれはならない問題にも直結しているからだ。

 たとえば、この書評の最初に述べたように、私はかつて小説家になろうと思った時期があった。それは実現することはなかったが、少なくともその可能性はゼロではなかったし、もしかしたら今もその可能性は残されているのかもしれない。だが、キャシーをはじめとするヘールシャムの子どもたちのたどるべき道は、最初からひとつしかなく、それは彼らの意思とは無関係に、すべて決定済みである。にもかかわらず、語り手の思い出のなかで彼らは数少ない小説や雑誌を読み、絵や詩を創作し、そして自身の将来について淡い思いをめぐらせていく。そんな日は彼らにけっして訪れることはないにもかかわらず、なぜ彼らはそんな思いをもつことができたのか。そしてそのことに、どのような意味があったのか。

 彼らが育ったヘールシャムは、現実の世界とのつながりを極度に制限された、閉鎖された小さな世界である。キャシーたちにとって、そこで教えられたことが世界のすべてであるとするなら、彼らに課せられた運命に対して、彼らが驚くほど素直にそれを受け入れていくというのも、ある程度は納得できることでもある。諦念、というわけではない。それが自分たちにとって至極あたり前のことであり、それ以外の選択肢は思いつきもしない状態である、ということ――だが、本当にそうなのだろうか、という思いが、本書を読んでいくと浮かび上がってくる。そうした考えは、私たち読者もまた、彼らを人間ではない別の何かであると見なしていることにならないだろうか。そうしたある種の歪みが、本書のなかにはたしかにある。けっして言葉にすることはできない、むしろ、はっきりとした言葉で書かれていないからこそ醸し出される奇妙な違和感、その奇怪さが立ち現われてくるという点こそ、本書の真骨頂だと言うことができる。

 何か根本的なところで間違ったところがある。そこを修正しないかぎり、根本的な解決にはならない。にもかかわらず、誰ひとりとしてそのことを指摘することなく――あるいは指摘することができないまま、まったく違うベクトルのほうに心血を注ぐことで、問題を少しでも改善しようと試みている。本書に書かれているのは、ようするにそうしたことである。人間らしさとは何か、生きるとはどういうことなのか、その平静な語り口の裏に見え隠れしているものについて、はたしてあなたはどのようにとらえることになるのだろうか。(2009.01.28)

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