【白水社】
『インド夜想曲』

アントニオ・タブッキ著/須賀敦子訳 



 ここに一冊のガイドブックがあると仮定する。

 そこには、読み手がおそらく訪れるであろう旅行先の詳細な地図が載っており、そこへ行くための交通機関が書いてあり、有名なホテルや食事処、観光スポットや特産品などの情報が満載されているはずである。より親切なガイドブックであれば、はじめてそこを訪れる人のための、注意事項といったものも載せられているかもしれない。

 言うまでもなく、ガイドブックとは旅行先のことをいろいろ教えてくれる便利な本であり、旅行をより楽しく、有意義なものとするために必要不可欠なものだ。ところで、人はなぜ旅行をするのだろうか。観光、慰安――いろいろな目的があるだろうが、ごく簡単に言ってしまえば、平凡な日常から一時的に脱却するために、人は旅をするのである。それゆえに、普通のガイドブックには「日常」は描かれていない。そこにあるのは、旅行者にとっての「非日常」をよりよく演出するための舞台装置でしかないのだ。

 本書『インド夜想曲』は、旅行記という体裁をとっている。じっさい、冒頭では一人称で書かれるひとりの男性――ルゥと名乗るイタリア人がガイドブックを片手に、タクシーに乗り込んでいる場面があり、彼の旅はそこからはじまるのだ。そういう意味で、本書に書かれているのは、まさに「非日常」というにふさわしい世界だと言うことができるだろう。

「非日常」を演出する個人の旅行、そしてそれを助ける一冊のガイドブック――ルゥの旅には目的がある。インドで行方不明になったままの友人を探すために、彼はインドを訪れ、その痕跡を追っている。だが、失踪人探しという、いかにもミステリー的要素は、けっして本書のメインではない。なぜなら、そのいかにもミステリーのように思える謎に、真の解決は存在しないのだから。それどころか、すべてを読み終えた読者は、はたして謎はもちろんのこと、物語そのものすら、はたして本当にあったのだろうか、と狐につままれたような思いをするに違いない。

 じっさい、ボンベイからマドラスを経て、ゴアへとつづくルゥの旅は、失踪人探しという目的で見るかぎり、たしかに時系列的にもひとつの物語の流れをとるものの、じつはその「旅の目的」という名の「非日常」を取り除くと、この三部構成、十二章からなる一連の物語は、たちまちそのつながりを失い、それぞれが独立した物語の断片――しかもさまざまな広がりと可能性を持ち、読み手の想像力を喚起する断片へと変貌を遂げるのである。そう、まるでページごとに違った街を紹介するガイドブックのように、どこから読んでもちゃんと成立するサイドストーリーは、その瞬間、ルゥにとっての「非日常」から、読者自身にとっての「非日常」、読者自身のインド旅行、読者自身の探索の旅となるのである。

 本書のひとつの特徴である、主人公の無個性なところ――おそらく各章ごとに違う登場人物であってもおかしくないほどの無個性は、必然的に一人称「僕」と読者との境界を曖昧にしていく。じっさい、本書を読んでいくうちに、主人公であるはずのルゥはだんだん「ルゥ」から単なる「僕」へと変質し、それと同じくして、彼の「旅の目的」も、どこか曖昧になっていく。それはインドという、聖と俗、美と醜、善と悪がごちゃまぜになった混沌の国の、印象的な情景描写とまじりあい、まるで現実と幻の境目を打ち消してしまうかのような、不思議な空間を生み出すことに成功しているのだ。

 見るという純粋行為のなかには、かならずサディズムがある、と言ったのは誰だったろうか。思い出そうとしたが、名がうかばないままに、この言葉のなかにはなにか真実があるのを僕は感じていた。それで、僕はますます貪欲にあたりを眺めたが、自分本人はどこかわからないが別の場所にいて、見ているのは二つの目にすぎないという意識がつめたく冴えていた。

「別の場所」とは、いったいどこだろうか? 彼は旅をしていたのではないだろうか? こうした、主人公の「旅の目的」そのものに疑問を呈するような意味深な場面は、本書のあちこちに登場する。そして、そうなってくると、主人公の希薄さは、もはや主人公だけのものではなく、彼が暴力的に見ているものにも影響をおよぼしてくる。本書の舞台となる十二の場所――あるときは薄汚い宿であったり、陰鬱で不潔な病院であったり、何もないバスの停留所であったり、豪華なリゾートホテルであったりするのだが、そうした場所もまた、巧みな情景描写で読者を惹きつけるにもかかわらず、いや、むしろそれだからこそ、実際にその場所が本当にインドという現実世界に存在しているのかどうか、ふと疑いたくなる誘惑を押さえることができなくなる。

 まるでガイドブックのようだ、と私は本書のことを評した。そして「非日常」を演出するための本書が「不眠の本」であり、「《影》の探求」であると自ら語っているのは、非常に興味深いことだ。普通のガイドブックにはけっして書かれていない、インドの影の部分――それはとりもなおさず、インドの「日常」に他ならない――を、あえて探索という「旅の目的」と結びつけることで、本書はその影に光を当てようとした。その光がはたして、読者に届くのか、あるいは届かないのかは私にもわからない。だが、「見るという純粋行為」をインドの《影》に向けることこそ、本書の本質ではないだろうか。たとえそれが現実と幻とをごちゃまぜにするサディズム的な行為であったとしても、である。

 旅は何らかの目的があるからこその旅であるが、その目的は、旅行先の「光」の部分しか照らさない。旅から目的を取り除いたとき、旅はもはや旅ではなくなってしまうが、そのときにこそ、旅行先はたんなる旅行先ではなく、その「影」の部分を見せてくれる。そして、そんな「目的のない旅」は、私たちの人生そのものを思い出させるものでもある。

 私たちはどこから来て、そしてどこへ行くのか――本書は、たとえ夢や幻ではあっても、私たちの一生の「影」の部分である、はるかな過去や未来の姿を垣間見せる旅へと、読者を導いていくガイドブックとなるに違いない。(2001.06.11)

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