【講談社】
『名前探しの放課後』

辻村深月著 



 サプライズパーティーというものをご存じだろうか。誕生日や記念日などのお祝いをひそかに準備しておいて、その主体となる誰かをびっくりさせることを目的とするパーティーのことであるが、当然のことながらその仕掛けがおおがかりなものであればあるほど、その仕掛け人はあらゆる点に細心の注意を払っておく必要が生じてくる。なにしろ「サプライズ」なのだから、当の本人に知られてしまってはすべてが水の泡となってしまう。サプライズパーティーを企画するにおいて、ターゲットにそのことを勘づかせないというのは、いわば至上命令なのだ。

 ともかくサプライズパーティーを成功させることを第一と考えるのであれば、極端な話、自分ひとりですべてを計画するのがいい。秘密というものは、それを知る人数が少なければ少ないほど洩れる可能性は低くなる。こっそりプレゼントを用意しておく、といった小さなことであれば、それでも充分だろう。だが、パーティーというのは、祝ってくれる人が多ければ多いほど喜びも大きくなるものだし、仕掛ける側の達成感も大きなものとなる。私が本書『名前探しの放課後』を読み終えてまず感じたのは、本書の作品としての面白さ、素晴らしさのもとになるものとして、このサプライズパーティーの要素が大きく関与しているのでは、ということである。

 では、本書におけるサプライズパーティーの要素とは何か、ということになるのだが、これはある意味はっきりとしている。それは、この物語のなかで誰が自殺することになるのか、という要素だ。本書の中心人物のひとりである依田いつかは、県内でも有数の進学校にあたる藤見高校に通う高校一年生だが、ある日唐突に、自分が三ヶ月前の過去に飛ばされていることに気づく。それも、記憶のほうはある程度はっきりとしており、その記憶のなかには、これからの三ヶ月のあいだに同じ高校の生徒の誰かがクリスマスイヴに自殺するという事実が含まれている。だが、肝心の情報――誰がどのような方法で自殺するのか、という部分だけ、彼はどうしても思いだすことができない。このような事態に対して、依田いつかが最初にとった積極的行動は、自分と同じ中学出身で、同じ藤見高校に通っているクラスメイトの坂崎あすなにすべてを打ち明け、未来で起きてしまう自殺を未然に防ぐための協力を頼むことだった。

「正直、深く考えなかった。知ってるんだから、どうにかできるならどうにかしたい。それだけだよ。人の命を『救いたい』なんてだいそれた前向きな気持ちじゃない。むしろ後ろ向きで、相手がどうっていうより自分が後悔したり、罪悪感に苛まれたくないから、だからって方が正直強い」

 これは、坂崎あすなをふくめ、親しいメンバー五人にあらためてタイムスリップのことを打ち明けたさいに、そのひとりの天木敬から「これまでほとんど記憶に残っていないような、その程度の奴」をなぜ救おうと思うのか、と訊かれたときの、いつかの返事である。そしてそれは、同時に読者が覚える違和感のひとつでもある。依田いつかという人物について、本書はお世辞にも良い高校生という印象をもたせようとしていない。ルックスがよく、交際相手には苦労しないが、その相手に飽きるのも早いというナンパな男、というのが、当初の読者の第一印象だと思うのだが、そんな彼が、その「誰か」の自殺を止めたい、という意思については過剰なまでの熱意を見せる。その理由として、上記引用の言葉はあまりにも薄弱だ。

 たとえば、同著者の『冷たい校舎の時は止まる』においても、なぜか名前を思い出すことのできないクラスメイトの自殺の動機を追及するという意味で、本書とよく似た物語設定であるが、『冷たい校舎の時は止まる』の場合、登場人物たち全員が特殊な空間に閉じ込められており、そこから脱出する鍵として、自殺者の名前は機能していた。だが、本書の場合、特殊な事情に陥っているのは依田いつかひとりだけであり、それも「三ヶ月前に戻る」という、それほど大きな影響もないように思える特殊さである。だがそれでも、本書を通して読んでいくうちに、その言葉を素直に受け入れることができるのは、それだけ著者の文章力に説得力があるからに他ならない。じっさい、本書はその場面場面で的確なたとえ話を挿入していくのがじつにうまいのだ。

 本書がサプライズパーティーの要素をもっている以上、すべては密やかに行なわれていく。表からは見えない部分で、多くの人たちが、けっして自身の行動について自己主張することなく、ひとつの目的のために協力していくという要素は、著者の作品を通じて見ることができる重要なテーマのひとつだ。そして物語は、坂崎あすなのとある発見を機に、自殺に結びつきそうな人物を特定し、未来の自殺を止めるために奮闘していくという流れを見せる。本書のタイトルである『名前探しの放課後』は、名前のわからない自殺者を追及する、という意味でまさにこの物語の真意を突いた命名ではある。だが、本書を最後まで読み終え、そこに隠された真の「サプライズ」が判明したとき、このタイトルのもつさらに奥深い意味が見えてくることになる。

「『いつか、なりたいものになれるように』っていう願いを込めて、『いつか』なんでしょ? すごくかっこいい由来だと思うけど」

 じつのところ、著者の作品をうまく書評するのはとても難しい。タイムスリップや超能力といった非科学的な要素を用いることが多い著者の作品は、そのあらすじをそのまま要約していくと、どうあがいても陳腐でありがちなストーリーにしかならないのだ。しかも、肝心のストーリーの核心部分はミステリーのネタばらしになるため、触れることができない。ゆえに、この書評のなかで言うことができるのは、人目を忍んでひそやかに行なわれる「サプライズパーティー」的な努力、ある人物にけっしてその真意を知られることなく進められていくストーリーの、その「真意」の部分が、しばしば読者の目にさえ隠されたまま進行していく、ということだけである。そういう意味では、本書は本書がミステリーである、という要素すら巧みに隠蔽するだけの人間ドラマを展開する作品だということができる。

 依田いつかはただのプレイボーイではなく、怪我の後遺症で水泳選手としての未来を奪われたという過去をもっている。坂崎あすなは現在祖父とのふたり暮らしだが、父はすでに他界し、母は彼女を置いて家を出て行ってしまっている。登場人物の性格やその過去、心理状態などをさりげなく描写しつつ、その言動に深みをもたせていく本書において、はたして依田いつかが本当に救いたかったものは何だったのか、そしてそれは果たされたのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2008.08.25)

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