【新潮社】
『彼方なる歌に耳を澄ませよ』

アリステア・マクラウド著/中野恵津子訳 



 私という人間個人の歴史については、そこに「歴史」などという言葉をもちいることさえおこがましいほど短く、平凡なものでしかないのだが、自分を含む一家――両親や祖父母、さらにその上に連なっている先祖たちや、そこから枝分かれして別の姓となった親戚たちの歴史となると、その総体はそれなりに語るべき何かが生まれてくるし、その一族にとって何らかの意味をもたらすこともある。たとえば、私の父が生まれ育った町は、町というよりも「集落」というべき小さなところで、昔はそこに着くためには街灯もない砂利道をずっと進んでいかなければならなかった。そして聞いた話によれば、父方の祖父母は、どちらも違う家の姓であったのだが、夫婦となることで一度は断絶しかけたある姓を受け継ぐことになった、ということらしい。つまり、私の姓はかつて存亡の危機にあった、ということである。

 私にとって、今の姓がどのような意味をもつのかはあまり興味もなかったし、おそらく住民の誰もがなんらかの形でひとつの血のつながりをもつような場所において、消えかけたひとつの姓を存続させるという「歴史」が、どの程度の信憑性をもつのかもはっきりとしないのだが、現在私がいまだ独身のままであり、伯父のひとり息子もまた同じように独身でいること、そして結婚した兄の子どもがいずれも女の子であることを鑑みると、このままいけばいずれ、私のもつ姓は途絶えてしまうことになる。このあいだ実家に帰省して、その事実を兄から聞かされたとき(そして案の定、結婚のこととかに話が向かったとき)、私が思い出したのは、父方の祖父母が今の「姓」を名乗ることになった経緯についてだった。「家」という概念が今よりずっと強かった過去において、自分の受け継いた姓が、いずれこの世から消えてしまうというとき、はたして彼らがどのような心境だったのか、という点で、私もまたその「姓」に連なる者のひとりであることを思い知るというのは、なんとも皮肉なことではあったが、たしかにそこには、自分の先祖なんだという妙な納得があったのも覚えている。

「あたしが知らないことはいっぱいあるよ」とおばあちゃんは言ったものだ。「でもね、あたしには心から信じていることがあるの。どんなときにも、身内の面倒をちゃんとみるべきだと信じてる。それを信じなきゃ、おまえたち二人はどうなるの?」

 本書『彼方なる歌に耳を澄ませよ』のなかで語られているのは、「クロウン・キャラム・ルーア(赤毛のキャラムの子供たち)」と呼ばれる一族の歴史である。カナダのケープ・ブレトン島にいた子ども時代、その赤毛ゆえに「ギラ・ベク・ルーア(小さな赤い男の子)」と呼ばれ、それが自分の本名だとさえ思い込んでいた語り手のアレグザンダーは、今では故郷を遠く離れたオンタリオ州南部で歯科医として大成した中年男性であるが、そんな彼がわざわざトロントの貧相なアパートに訪ねていくのは、そこに兄のキャラムが住んでいるからだ。経済的にも裕福なほうに入るアレグザンダーとは異なり、慢性的なアルコール中毒で、生きる気力を失ったように見える、落ちぶれたという言葉がふさわしい兄ではあるが、ふたりは同じ「クロウン・キャラム・ルーア」の一族であるという意味で、深いつながりをもっている。物語はそこから、かつて赤毛のキャラム・ルーアがスコットランドからケープ・ブレトン島に渡ってきた18世紀末、彼らの始祖にあたる人物の歴史へと一気に遡ることになるのだが、そうした一族の歴史を語っていくのは、ひとえにこの対照的な兄弟の関係について、読者に納得させるためのものだとも言える。

 はたして、兄のキャラムの身に何があり、そこにアレグザンダーがどのようなかかわりがあったのか、というひとつの謎が本書の冒頭で提示されるわけだが、そこにいわゆるミステリー的な謎解きの要素はない。それどころか、冒頭で登場した語り手とその兄は、けっして物語の中心人物としての役割を担っているわけでもない。本書を読み進めていけばわかってくることだが、本書の中心にあるのは、あくまでキャラム一族というひとつの大きな単位であり、その血縁につらなるものすべてが主人公でもあるのだ。そして赤毛のキャラム・ルーアがケープ・ブレトン島に降り立ってから、語り手の祖父母、さらにその子どもたちや孫にいたるまでの、連綿とつづいていく血筋を追うようにして、物語は少しずつ過去から現在へとその距離を縮めていく。

 厳冬期は寒さで海そのものが凍りつき、作業をしていた馬にかけた毛皮がみるみる白い霜に覆われてしまうような、ケープ・ブレトン島の環境、その厳しくも美しい自然の見せる美や、電気も水道もなかったその土地に生きる人々の朴訥さや力強さといった要素は、同著者の短編集『灰色の輝ける贈り物』でも見られるもので、本書のなかにもそうした短編集とのつながりが多々見られたりするのだが、何より強調されているのが、スコットランドのハイランダーを根とする赤毛の一族の、その強い仲間意識、同胞であるという意思が生み出すつながりの強さである。大陸でたまたま出会った人物が、自分たちと同じ「クロウン・キャラム・ルーア」の一族だということがわかって、食事や宿の手配をしてくれたり、油田の経営者である夫とともにスコットランドに滞在していた語り手の妹が、ハイランド地方で出会った人たちと、キャラム・ルーアの過去を共有していて、まるで同族のようにもてなしてくれたり、といったエピソードがいくつも出てくるのだが、そうした広い一族のつながりのなかでも、もっとも印象深いものが、上述の祖母の言葉であり、そこに集約されているものである。

 語り手の父母は、彼が三歳のときに、海を徒歩で渡っている最中に氷が割れ、ひとつ上の兄とともに海中に沈んでしまった。そのとき、父方の祖父母の家に滞在していた語り手は、妹とともにそのまま祖父母の手で育てられることになった。そのエピソードだけをとらえるなら、さほど珍しい取り決めとも思われないところであるが、その祖父母もまた、結婚当初は生活が厳しく、一時期はサンフランシスコにいる親戚のところに身を寄せようと考えていたこともあったというエピソード、そして物語後半に、そのサンフランシスコから庇護を求めてきた一族の青年を、祖母が世話するように孫たちに言い、語り手たちがあたり前のように彼を迎え入れるというエピソードを合わせて考えたとき、彼らの「クロウン・キャラム・ルーア」としてのつながりがいかに重要なものとして、彼らのなかに浸透しているのかが見えてくる。それは、先祖代々の土地を離れ、新天地で生きていかなければならなくなった人たちの、厳しい自然を生き抜いていくために必要な力だと言うこともできるのだが、そうした環境が、逆に一族のつながりを強くしていかざるをえなかったのであれば、そこに一抹の哀しさを感じたとしても不思議なことではない。

 本書に登場するキャラム一族には、語り手や彼の母方の祖父に代表されるようなインテリに属する者たちと、父方の祖父や語り手の兄たちに代表されるような労働者に属する者たちとに分けられる。それは、本書冒頭における語り手と兄のキャラムという、対極ともいうべき組み合わせにも反映されているものだが、大学も無事に卒業し、歯科医としての未来を約束されていた語り手が、かつて事故で死んだ親戚の代わりとして鉱山ではたらき、今も兄の様子をちょくちょく見に行くということについて、語り手の心境はそれなりに複雑なものがあるはずなのは、想像に難くない。一族のつながり、血縁というものの考え方は、あるいは現代においては時代遅れなものでしかないのかもしれない。だが、それでもなお自分が「クロウン・キャラム・ルーア」の一員だという事実が、その行動理念の一部となっている語り手の生き方が、愚かしいというよりは、むしろどこか懐かしさを感じさせるものがあるのは、ひとえにそのつながりの強さが圧倒的な深さをともなうものだからに他ならない。人が人であるための支えとしての、一族のつながり――それは、何かと不自由ではあるが、同時に自分がたしかにどこかでつながっているという心の安定をもたらすものでもあるのだ。

 どんなに遠く離れていても、どれだけその外見や就いている職業が異なっていても、彼らの口から出てくるゲール語の歌が、一族をひとつに結びつけていく。本書には、彼らの先祖を忍ばせる数々の歌が出てくるが、そうした歌による人々のつながりを連想させる本書の邦訳『彼方なる歌に耳を澄ませよ』は、このうえなく見事なタイトルである。遠い過去から連綿と続く血族、その受け継がれていくものの小ささと大きさについて、はたして読者は何を思うことになるのだろうか。(2008.02.06)

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