【東京創元社】
『夜の蝉』

北村薫著 
第44回日本推理作家協会賞受賞作 

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 人はもともと、自分勝手な生き物である――そう考えるのは、あるいは「自分自身の気持ちさえよくわからないのに、他人の気持ちなどわかるはずもない」と普段から思ってしまっている私の冷淡さゆえなのかもしれないが、言葉という、コミュニケーションの道具としてはあまりに不完全なものを用いてしか意思の疎通ができない人間というものに、もどかしさを感じている人は、けっして少なくはないはずだ。
 私も以前はそう思っていた。超能力の世界でよく登場するテレパシーは、自分の思っていることをイメージとして、直接相手に伝えることができる能力だとも言われているが、そうした力が備わっていれば、世の中のトラブルや誤解は、きっと今より少なくなるに違いない、と単純に信じている自分が、そこにはいた。

 現実を振りかえったとき、人がコミュニケーションの道具として用いているのは、テレパシーではない。あくまで言葉である。だが、本書『夜の蝉』を読み終えたとき、私はそのまぎれもない言葉だけの世界から、まるでテレパシーのように、与えられた情報以上の事柄を引き出してみせる登場人物に圧倒されていた。テレパシー? いや、テレパシーはあくまでその人が思っていることをイメージで伝えるにすぎない。だから、前作『空飛ぶ馬』にひきつづき、探偵役をつとめることになる噺家の春桜亭円紫の能力は、テレパシーさえも上回ることになる。しかも、その力は人間であれば誰もが内に秘めている、人間だけに与えられた力でもあるのだ。

 その能力の名は、「想像力」という。自分以外の人間を思いやるための、唯一の力だ。

 本書に収められている短編は三つ、女子大生である「私」が、その日常生活のなかで出会ったちょっとした謎を、円紫師匠が鮮やかに推理してみせるという流れは前作と同様であるが、今回の作品においてもっとも注目すべきなのは、円紫師匠の推理によって明かされる人間の心の動きよりも、むしろヒロイン役である「私」の心の動きであろう。というのは、「朧夜の底」は「私」の友人である高岡正子にまつわる話、「六月の花嫁」は同じく友人の庄司江美にまつわる話、最後の「夜の蝉」は、誰からも美人だと認められる「私」の姉にまつわる話と、三作とも「私」に近しい人々が謎にかかわっている、ということもあるのだが、そのいずれにおいても、恋愛や結婚といった、男と女の関係、女であれば――いや男にとってもそうであるが――誰もが無関心ではいられない出来事がテーマとなっているからに他ならない。

「私」はちょうど二十歳になったばかりであるが、読書が趣味で日本文学にも精通しているという、典型的な文学少女であり、髪は面倒臭くないショートカット、化粧にも衣服にも、そして自分を着飾ることについてもあまり興味をしめさないという性格の女性として描かれている。とはいっても、自分でも女としての魅力に欠けるところがあることに自覚はあるようで、とくに自分よりも格段に女として魅力的な姉に対しては、いろいろ複雑な思いを抱いている雰囲気もさりげなく書かれていたりするのだが、そうした要素がそのまま恋愛事に関する無関心と結びつくわけではない。著者である北村薫が、「私」というヒロインを、生きた人間としてより生き生きとふるまわせたいと考えたとき、そして彼女が「探偵」という人以上の存在ではなく、あくまでごく普通の女子大生として演出させたいと考えたとき、彼女に恋愛という要素をからませるのは、むしろ当然の流れだろう。

 そういう意味で、本書の主人公は円紫師匠ではなく、むしろ「私」だと言ってもいいだろう。ちなみに、円紫師匠はけっして「私」の恋人候補にならないと断言しておく。それは、円紫師匠が四十すぎの既婚者で一人娘の父親でもある、ということだけでなく、笠井潔風に言えば「死者の人間性を回復させる」探偵は、一種の修道僧と同じであり、恋愛事とはもっとも遠く離れた存在にほかならないからだ。

「六月の花嫁」では、一年半前に軽井沢の別荘で体験した、ちょっとした事件に対して「私」がにわか探偵役としてその謎を解く、というシーンもあり、彼女自身が探偵として成長してきたのか、と思わせるところもあったりするが、それは円紫師匠という「真打ち」の、さらに奥深い推理によって、たんなる引き立て役と成り下がってしまう。それは「私」の役割からすれば当然のことにすぎない。著者が「私」に与えたのはごく普通の女子大生であり、けっして「探偵」ではないのだから。そしてそこにこそ、著者の登場人物たちへのあたたかな思いが感じられるところなのだ。

 円紫師匠の謎解きを通じて伝わってくるのは、なにより「他人を思いやる心」である。そしてそれは、真実を知ることに対してあまりにも鋭すぎるがゆえのやさしさでもある。たとえば、「夜の蝉」のなかで円紫師匠が語る落語の「つるつる」――私はこの落語をCDで聴いたことがあるが、女の子との大事な約束があるという一八の事情を旦那が知っているのと知らないのとでは、ずいぶん雰囲気が異なってくるであろうことは容易に想像がつく。私などは、円紫師匠の「つるつる」は、旦那が事情をまったく知らないがゆえに、かえって無自覚な悪意で場を壊してしまわないか、と思わないではないのだが、その危険を犯してもなお、一八の哀れさを少しでも小さくすることを選んだ円紫師匠の思いやりは、今のような世の中だからこそ、かけがえのないもののように思えてくる。

 私はこの書評の冒頭で、「他人の気持ちなんてわからない」と述べた。だが、本書を読み終えたとき、ふと思ったことがある。それはもしかしたら、たんに自分が他人のことを知ろうと努力しなかっただけではないか、という後悔の念だ。せっかく想像力という、人間だけに与えられた力がありながら、「人はそもそも自分勝手」という原則にあぐらをかいてしまい、コミュニケーションでもっとも大切な「他人を思いやる心」を忘れてしまっていたのではないか――円紫師匠の「私」との、落語にも似た言葉のやりとりに触れると、そんなことを思わずにはいられなくなる。(2001.09.17)

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