【角川書店】
『アラビアの夜の種族』

古川日出男著 
第55回日本推理作家協会賞受賞作

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 本と人との関係、あるいは物語と人との関係について、ふと考える。たとえば、1日に数百点もの新刊書籍がこの世に生み出されている現状で、私たちは読みたいと思う本を探し、あるいは購入して最後まで読んだりすることもあるし、あるいは表紙を眺めるだけでけっきょく読まなかったりする。「読書というのは、そこにその本があるというだけでも、あの本があるなと思うだけでも、すでに読書の領域にはいっている」と『本という不思議』に書いたのは長田弘であるが、長く本というものにかかわっていると、まるで自分が呼び寄せられたかのように、ある一冊の本と出会う瞬間というのを、たしかに感じることがある。
 まるで、それが運命であったかのように。本が命を宿し、自分をもっとも欲している人間を選別しようとしたかのように。そして、そもそも本が人間の手で生み出されたものであり、かつてはその人の思考形態の一種であったことを考えたとき、本が、本の中にしたためられた物語が、ある種の人格をそなえているかもしれない、という想いは、いかにもありそうなことのように思えてくる。本と人との関係、それはそのまま人と人との関係にもつながってくるものなのだ。

 イスラーム世界の有名な物語である『千一夜物語』は、妃の裏切りによって世の女性を憎むようになった王に、シャハラザードと呼ばれる語り部が、夜毎に語って聞かせる壮大な物語集であるが、本書『アラビアの夜の種族』はどうなのだろう。一冊の書物という形をとりながら、真の語り手がいったい誰なのか――まるで、物語だけがひとり歩きをしているかのような、不思議な印象を抱かせるこの作品について、もし言えることがあるとすれば、それは本書が書物のための書物であり、物語のための物語だ、ということだろう。だが、そうした主観的印象を語っていても詮無きこと。では、この奇妙な物語の内容について触れてみよう。

 語り部はいる。たしかに存在している。本書の中でシャハラザードの役割をはたすのはズームルッド。物語り師のあいだでのみ語り伝えられている伝説の、歴史の表舞台にはけっして登場しない、夜の語り部。そしてその物語を聴くのはアイユーブ。エジプトを実質的に支配している23人の知事のひとり、イスマーイール・ベイ秘蔵の側近であり奴隷でもある美しい青年。時は1798年、エジプトはナポレオン・ボナパルト率いるフランス革命軍によって存亡の危機を迎えている。近代兵器を有するフランス軍に武力では太刀打ちできないと判断したその知事に、アイユーブはひとつの策を提案する。

 読む者を虜にし、最後には破滅させてしまうという、稀代の物語集、「災厄(わざわい)の書」をナポレオンに献上し(彼が無類の読書家であったことは、多くの歴史書が証明している)、その魔力によってフランス軍を崩壊に導きましょう、と。

 その物語集の内容こそ、ズームルッドが本書で語る年代記である。彼女が語り、アイユーブが聴き、書家とその付き人が書きとめる。これが物語の大枠。そしてその聴き手には、当然のことながら本書を手にした私たち読者も含まれている。

 たしかに魅力的だ。著者はこれまで『13』における色彩の神の現出や、『沈黙』における幻の音楽「ルコ」など、魅力的な――そしてそれゆえに扱うのが難しい題材をテーマに物語を書いてきたが、本書における稀代の書物という題材はもちろんのこと、物語の構成力や文章力においても、まさにストーリー・テラーとしての技術を最大限に発揮したと言うことができるだろう。

 世界にただ一冊、読む者を「特別な関係」に陥れる魔術的な書物――このテーマのために、著者は本書そのものを「翻訳」だと明記する。著者の記されていない「The Arabian Nightbreeds」(英訳)の日本語版である、と。もちろん、著者ならではのギミックだろう(確証があるわけではないが、ズームルッドの語る物語のなかには、あきらかにTVゲームのRPGの影響を思わせる設定がある)。だが、あたかも原書が存在するかのような翻訳調の文体や、差し挟まれる数々の注釈、さらには時代設定的な矛盾さえも意図的に組み入れたりするその徹底ぶりは圧巻で、さらにその上に、ズームルッド、夜の種族が語る物語の魅力が絶妙に絡み合い、読者を物語世界へと引きずり込んでしまう。それこそ、読者を「特別な関係」に、まるで『千一夜物語』を聴く、かつてのペルシア王にでもなったかのような幻想へと陥れようとするかのように。

 では、本書の大部分を成す、ズームルッドの語る物語とは、いかようなものなのか? その全容を紹介するのは、今後の読者のためにも避けるが、いかにも現代版『千一夜物語』を彷彿とさせる物語集である。いくつかの独立した物語があり、しかしそれらの物語は後半になって、より大きな物語の流れのなかに収斂されていく。砂塵にまみれた年代記は、あるいは「もっとも忌まわしい妖術師アーダムと蛇のジンニーアの契約(ちぎり)の物語」であり、あるいは「美しい二人の拾い子ファラーとサフィアーンの物語」であり、あるいは「呪われたゾハルの地下宝物殿」でもある。闇のごとく歪んだ支配者の恋愛の物語であり、故郷に裏切られたアルビノの復讐の物語であり、王家の血を引きながら盗賊として生きる若者の貴種流離譚である。さまざまな物語の要素を抱え、たしかな存在感とともに迫ってくる登場人物たち――ときには地下の大迷宮や魔術書のように、場所や物そのものが強烈な自己主張をする場合さえある――の思惑が絡み合い、しかしけっして破綻することなく、壮大なひとつの物語として完成された夢の世界は語られ、そして夜が明ければ現実が――ナポレオンの一大帝国建設という妄想めいた夢に犯されつつある現実が差し挟まれる。

 不思議なことに、本書の中における夜と昼、虚構と現実という構造は、あきらかにつくりものであるはずの虚構のほうに巨大な力が秘められている。稀代の書物をテーマにした本書において、それは順当な流れだろう。現実を侵食していく夢、語り手を裏切る物語、著者の意図を超えていく書物――フランス軍の侵攻を食い止める秘策だった「災厄(わざわい)の書」もまた、当初の目的とはまったく違った方向へと動き出していく。

 自らの存在を滅ぼされないために。必要な人のもとに語られるために。それは、すべての物語がもつ正当な「生きる意志」とも言うべきもの。あるいは、そこにあるのは狂気か。

「聴きたい者の前には」とズームルッドはいった。「いずれにせよ、わたしは姿を見せるのです」
「あなたが?」
「物語が」

 本書はどうなのだろう、と私は再び自問する。この物語が、私を選んだのだろうか。物語を不滅にするために、私に書評されるために? もしこの書評が、さらなる読者の興味を惹くことになれば、それこそ物語にとっては幸いなことだろう。(2002.08.11)

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