【河出書房新社】
『推理小説』

秦建日子著 



 小説におけるリアルさと、現実におけるリアルさというのは、よく似ているようでいて、じつは別物である。

 たとえば、小説内における登場人物たちの会話は、現実における人間同士の会話とは異なる。現実に人が話をするとき、小説内のそれのように理路整然と、伝えたいことだけを語れるわけではなく、話す内容がときにわき道に逸れて行ったりするし、無駄な間合いや関係のない言葉など、伝えたいメッセージとは直接結びつくことのないノイズだって多分に混じっている。小説の世界において、そうしたノイズは、少なくともカギカッコ内の会話文のなかに表現されることはないし、そうしたノイズをニュアンスとして表現する場合は、たいていは地の文のなかに含めてしまう。もし、そうしたノイズを含めたうえで小説を書いていったとしたら、たしかに現実としてはリアリティーがあるのかもしれないが、小説内の世界においてはただ冗長なだけで、無意味ですらある。

 小説とは、言葉のみで世界を再構築する表現形式である。そして言葉を用いている以上、そこに書かれている文章は、かならず何らかの意味なり志向なりをもっていると考えるのが普通である。小説のリアルというのは、そういう意味では言葉で表現するという最低限のルールをいかに遵守していくか、ということとつながっている。そしてそれは、ミステリーというジャンルにおいてもけっして例外ではない。いや、むしろ読者に犯人当てをさせるというゲーム的要素の強い本格ミステリーの場合、ルールづけはより厳格さを増すことになる。殺人事件が起き、その犯人が誰なのかを推理しなければならないのであれば、少なくとも小説内に書かれた情報だけで、論理的整合性がとれるようにしなければならないのだ。

 求められるのは、常に予定調和的「大ドンデン返し」。そのくせ、それらは同時に「リアリティ」を持っていなければいけないと読者は言う。あるいは、読者の代理人である編集者が言う。

 今回紹介する本書『推理小説』は、タイトルからして人を食ったネーミングだが、内容もまたそれ以上に人を食っている。というのも、ミステリーにおいて必ずと言っていいほど生じる殺人事件は、虚構であるという前提ゆえに、まずは読者に容易に虚構であることを感じさせないためのリアリティを必要とするものであるが、本書の場合、逆に現実におけるリアルをミステリーに無理やり引き寄せるという方向性で話が展開していくところがあるからだ。

 たとえば、本書でもお約束のように殺人事件が起こる。章のタイトルに「お約束の殺人」などというタイトルをつけるところが、本書のある意味いやらしいところだが、それはともかくとして、新宿区戸山の公園内で発見された死体はふたつ。ひとりは中年サラリーマンであり、もうひとりは女子高生。どちらもナイフで刺殺されていたが、そのうちサラリーマンのほうは左眼球が抉りとられていた。警察は被害者の身辺捜査に乗り出すものの、彼らを結びつける接点は見つからず、また戸山公園を通るルートは被害者がふだんは使わないものであり、たまたまそこを通りがかったから殺された、としかとらえようのない状況だ。

 はたして、この殺人事件は通り魔によるたんなる無差別殺人なのか、あるいは犯人にしか知りえない何かの接点があるのか――しかしながら、本書が『推理小説』というタイトルを冠している以上、読者はかならずそこに何らかの関連性があることを期待するし、またそれがなければミステリーとしては「フェアじゃない」ということになる。なぜふたりなのか、なぜ眼球を取り出さなければならなかったのか、なぜその時間、その場所なのか、そのすべてについて、論理的な――あるいは論理的に思える理屈をつけてみせるのが、言ってみれば探偵の役割ということになる。

 しかし、もしミステリーという虚構ありきで現実をそれに合わせていく、という手法がとりえるとしたらどうなるだろうか、という視点が、本書を貫く重要な要素として存在する。殺人事件が起こり、探偵役を担うことになるだろうと予想される女刑事の雪平夏見(彼女が通常の価値観にとらわれない、どこか変人っぽい性格であることも、ある種の「お約束」である)が捜査に乗り出し、しかし犯人につながる証拠はほとんど見つからず、同一人物の犯行と思われる第二の殺人事件が発生する。いや、決定的と思われる物証は、じつは物語の早い段階で登場する。警察や大手出版社に匿名で送られてきた、「推理小説・上巻」と名づけられた小説の原稿には、今回起きた事件の内容が詳細にわたって書かれており、さらにその時点ではまだ起きていなかった第二の事件についても言及されていたのだ。

 本書のなかでしばしば登場する、「作者」なる人物によって書かれたと思われる「推理小説」どおりに起こっていく殺人事件――それは、はたしてミステリーとしてリアルなのかと言われれば、答えは「NO」だ。あまりにも現実的じゃない、リアルじゃない、という答えが返ってくるのは目に見えている。なぜなら、その殺人計画はあまりにも偶然的な要素が強すぎるからだ。何かひとつでも予想外なことが犯人の身の上に起きれば、すべての計画は破綻してしまうという、そんなずさんな計画を、はたして犯人はとるだろうか。いや、ミステリーにおいて犯人がそんな計画をとることが許されるのか、と言い直したほうがいいかもしれない。

 だが、それでもなお、まぎれもない現実世界で殺人事件が起こってしまったら、それはまぎれもないリアルとして人々の知るところとなる。たとえそれが偶然だろうと必然だろうと、人が殺されたという事実は圧倒的なリアルだ。リアルをミステリーという虚構に引き寄せるとは、そういう意味であるし、だからこそ犯人が書いた「推理小説」は、まさに書かれたとおりに人が殺されるという意味で、圧倒的なリアリティを得ることになる。

 現実に観測された事実。
 ここでもまた、それが、妄想家のヨタ話を、世界の常識にまで押し上げた。
 わかるだろうか。
 勘のいい読者は、そろそろ私の言いたいことに気づいてくれている頃だと思う。

 本書はいわゆるミステリーというジャンルへのアンチテーゼを表明したいわけではない。本書を読み進めていくとわかるが、たとえば犯人が作品のはじめのほうから登場しているとか、犯人を特定するためのヒントや伏線がちゃんと貼られているとかいった点において、本書はむしろミステリーとしての約束事をきちんと押さえてさえいるのだ。もし、本書にミステリーとして「フェアじゃない」部分があるとすれば、それは犯人の動機ということになる。はたして、犯人はなぜ自分の書いた「推理小説」に沿って殺人事件を引き起こそうと思ったのか、そしてその動機に対して、探偵役である女刑事、雪平夏見ははたしてどのような行動をとるのか――そして何より、ミステリー好きの読者が本書に対してどのような判定をくだすのか、じつに興味深いところである。(2010.03.31)

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