【平凡社】
『茗荷谷の猫』

木内昇著 



 私たちがこの世で生きていくということは、現実としっかり対峙するということでもある。ここでいう「現実」とは、生きていくためには食べる物が必要であり、夜露をしのげる住処が必要であるということであり、家族をもつ身であれば、自分自身もふくめたその家族を養っていくということも含まれてくる。そしてそのためには、私たちは何らかの仕事に就き、賃金を稼いで生活の糧としなければならない。それは文字どおりの「生きる」こと――生物学的な意味で生命活動を維持していくことと密接につながっており、私たちが第一に考えなければならない問題であることは間違いのない事実であるが、人はときに、そうした根本的な事柄を度外視してまで、自分自身が生存するという現実とは無関係なものに惹かれ、一心に打ち込んでいくことがある。

 ただたんに生きていくということと、「人間」として生きていくということとのあいだには、おそらくより精神的な問題がはらんでいる。べつの言い方をすれば、私たちの心の作用――何かを美しいと思ったり、何かに感動したりする心の動きのことだ。そういったものは、本来的な「生きる」という意味では無用のものでしかない。単純に生存本能に従って、自分が生きることに執心し、そして子孫を残すための行動に勤しめばいいだけのことだ。だが、私たちの人間としての意識は、それ以上の意味を求めずにはいられない構造を有している。そしてそれは、自我というものと結びつくものでもある。自分が何のためにこの世に生まれてきたのか――日々の生活に追われ、家庭を築いていくことは素晴らしいことではあるが、けっきょくのところ人間は、最終的には自分自身というものに立ち返っていくしかない。はたして自分が、これまでどれだけのことをしてきたのか、あるいはこれからどれほどのことができるのか、ということを考えたとき、人はあるいは、それまでまっとうだと思っていた道から「踏み外す」ことになるのかもしれない。

「もともと形を持たぬものを、無理矢理表出させようとするからだ。だから酷い目を見るのだ。そんな愚かなことを考えるから」

(『黒焼道話』より)

 本書『茗荷谷の猫』は、表題作をふくむ九つの短編を収めた作品集であるが、登場する人たちは、いずれもどこか浮世離れしたようなことに思いを馳せ、あるいはそうした事柄に良くも悪くもとり憑かれているようなところがある。たとえば、『染井の桜』に登場する徳造は、祖父の代から築いてきた武士の身分を捨て、御家人ではなく植木職人として生きる決意をするし、『黒焼道話』の春造は、いもりの黒焼きや蝦蟇の油といった日本古来の療法に触れているうちに、もっと別の効能を引き出すことができないかと、黒焼きの研究に没頭するようになる。表題作である『茗荷谷の猫』の文枝は、緒方という男のあっせんで、趣味として描いていた絵画を売り物にしていたが、彼女の描く絵は、夢と現実の境界が判然としない、どこかを浮遊するような感覚のものばかりであるし、『庄助さん』のなかで、とある映画館で働いている青年は、国じゅうが来るべき戦争の暗雲につつまれていくなかで、活動写真のことしか頭になく、いずれ有名な映画監督になるのだと夢のようなことをいつも口にしている。

 本書の短編を順を追って読みすすめていくとわかることだが、収められた短編の時間軸は、過去から少しずつ現代へと時代を下っていくような構成となっている。最初の『染井の桜』が江戸時代の末期あたり、そこから明治、大正と時代が進み、第二次世界大戦とその敗戦における混乱を経て、最後の『スペインタイルの家』では、高度経済成長まっただ中の昭和三十年代あたりにまで迫ってくる。個々の短編は、あくまでそれぞれ独立した物語であって、ときに別の短編と一時的に交錯することはあっても、直接的なつながりをもつことはない。だが、にもかかわらず本書全体を通して、何か一貫した――どれだけ時代を経ても変わることのない何かを感じずにはいられないのは、それぞれの短編が東京という、日本の中心に位置する場所を舞台としていることが大きい。

 それは、たんに土地的な繋がりというだけではない。東京とは何より、多くの人たちが何らかの夢や希望をいだいて集まってくる場所であり、またそうした夢や希望の大半が、儚く散っていく場所でもある。そして本書は、けっして歴史の表舞台に出てくることのない名もなき人たちの、しかしたしかにこの世を生きた証をかき集めるようにして物語を綴っていく。長年の努力の末に実る夢もあれば、まったくもって徒労に終わってしまう夢もある。夢が叶っても、それ以上に大切なものを失ってしまった人もいる。そして『隠れる』の耕吉のように、一生喰うに困らないだけの財産を手にし、わずらわしい人との付き合いを避けて悠々自適に暮らすことを望みながら、東京という土地がもつ、形のないものを求めずにはいられない人々の思いによって、いつしかがんじがらめに縛られて逃げ出せなくなるようなことさえ起こる。

 そう、東京は、そこに住む人たちに見果てぬ夢を追い求めさせずにはいられないエネルギーがある。東京にさえいけば、何か自身の運命が拓けるようなことが起こるのではないか、という思い――それは、大学入学とともに上京してきた私にとっても、けっして他人事とは言えないものがあるのだ。『仲之町の大入道』に登場する松原均という男は、旋盤工という地味ではあるが堅実な仕事を生業としているが、そんな彼がひょんなことから借金取りとして向かう大男は、四十過ぎの文士ではあるものの、方々から借金をしては一向に返そうとしない、およそ立派な大人とは言いがたいものがあり、誠実さと真面目だけがとりえの松原とは対極に位置する人物となっている。そしてそんな実直でささやかな幸せだけを望んだ人であっても、たとえば『スペインタイルの家』の尾道俊男のように、ふとした瞬間にもっと違った人生の可能性に思いを馳せることを止めることができない。

 あの家には、自分の選びそびれた人生がこっそり眠っているように俊男は感じた。取り戻そうにも、呼び鈴を押すことすらもうできない。

(『スペインタイルの家』より)

『染井の桜』の徳造は、桜の品種改良に明け暮れたあげく、「染井吉野」を生み出したとされている。ほんの一時期に満開の花を咲かせ、次の瞬間にはすでに散り始めているという染井吉野の桜は、今では東京をはじめ、春になればあたりまえのように見ることのできるものだ。そしてその儚さをともなう桜は、ただ生きていくだけでは満足できずに、形のないものを何とか形にしようともがきながら生きた人々の思いを代弁するかのように、その後の短編のなかでも咲き乱れていく。はたしてあなたは、そんな人々の思いをどのように受け止め、彼らのみた夢の先に何を見出すことになるのだろうか。(2009.12.28)

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