【文藝春秋】
『ぼくのキャノン』

池上永一著 



 書評の中で時事ネタをもちいるのはあまり好きではないのだが、たとえばここ何年か、しばしば問題視されている小泉総理大臣の靖国神社参拝の問題について、反対か賛成かと問われたら、あなたは何と答えるだろうか。私は個人的にこの場で反対とか賛成とかいった答えを出すつもりはないが、かつてテレビ朝日の「ニュースステーション」という番組で行なわれた世論調査によれば、賛成・反対ともほぼ同数という結果が出ているらしい。ただし、その内訳を見てみると、賛成と答えた人の理由の大半が「特に問題があると思わない」というものであり、しかも年齢が若くなるほどその傾向が強くなってくるという(詳細はこちらで)。私はこの番組を直接見ていたわけではなく、坪内祐三の『靖国』を書評するさいに、靖国神社について調べていた過程で見つけた世論調査だったのだが、この若者の大半が抱いている、小泉総理の靖国神社参拝に対する「特に問題があると思わない」という回答は、裏を返せば「総理大臣が何をしようと興味がない」「個人の自由だからいいんじゃない」という、まさに日本の戦後民主主義がもたらした無関心や悪しき個人主義の問題を、おそろしいほど明確に表わしていると言うことができる。

 靖国神社がどういった過程で現在のような性格をもつようになったのか、韓国や中国といった、かつて日本軍によって蹂躙された国々が、なぜ総理の靖国参拝にこれほど神経質になるのか――もちろん、戦後生まれの私たちであっても、その気になれば調べることはできるし、その理由を理解することもできるだろう。だが、いくら私たちが情報として理解したとしても、戦争体験者としてじっさいに戦場へ向かったり、空襲の恐怖に怯えたことのある人たちの気持ちに、いったいどれだけ近づくことができるのだろう、とふと考えることがある。戦後日本そのものが、戦前や戦中を一方的に「悪」と決めつけ、周囲から排除していった結果、かつてこの国が犯した愚かしい戦争の記録が、人々の心から速やかに風化していく現在、戦争を語り継ぐことがとても大切なことであることを否定するつもりはない。だが、ただ戦争の悲惨さや恐ろしさをリアルに語り継ぐことだけがすべてなのだろうか。もしかしたら、こういうときにこそ物語が必要なのではないのだろうか。

 池上永一といえば、ユタやマブイ、幽霊や妖怪といった独特の、しかし底抜けに明るいファンタジーとしての「沖縄世界」を描く作家として有名だが、本書『ぼくのキャノン』では、沖縄のとある村に配置されたまま、21世紀になっても君臨し続ける一台のカノン砲が物語の中心に据えられている。帝国陸軍九六式一五センチカノン砲――思いっきり戦中の日本を象徴するこの第二次世界大戦の遺物は、しかし物語のなかでは「キャノン様」として村の人々に崇め奉られるという、なんとも不思議な存在である。

 物語の舞台となるその村では、誰もがキャノン様の信者である。そして村は実質上、キャノン様の巫女である喜屋武カマトによって支配されていた。彼女のお告げに疑問をいだいたり、逆らったりする者には容赦ない制裁が加えられ、せっせと信者からお布施を要求してくるえげつなさがある反面、他の自治体よりはるかに豊かな財源をもち、次々と公共施設を充実させて村人の生活に還元していったカマトの行政的手腕を、人々は認めざるを得なかった。だが、いっけん馬鹿馬鹿しいようなタブーが多かったり、村の土地の開発を強く制限していたり、「キャノン様の祟り」と称する原因不明の爆発が起こったりと、村には何かと不思議なことが多いのも事実である。

 いつもその身に風をまとわせている「男衆」や、絶世の美女ばかりで構成され、そのお色気で敵を悩殺する「寿隊」といった秘密結社、高価な物をやたらと捨てるのが趣味の、村の土地開発を狙う小野寺トラストの女社長、そしてそもそも、たんなる武器でしかないカノン砲を熱心に信仰する村という設定自体が、どこかしらファンタジーめいた雰囲気を生み出しているところは、いかにも著者らしい世界が展開していく本書であるが、この物語がそれまでの作品と異なっている点があるとすれば、それはマカトや樹王、チヨといった老人たちがひた隠しにしている村の秘密とはいったい何なのか、というミステリーの要素が強くなっているところであり、またその謎を解き明かす役割を担うのが、その老人たちの血を受け継いだ孫たちの手にゆだねられていることだろう。

 本書は雄太や博志、美奈といった90年代に生まれた子どもたちの成長を描いた物語でもある。90年代といえば、湾岸戦争さえリアルで知りえない世代だ。そして物語が進むにつれて、村の秘密がいつしか世界経済をも大きくゆるがせるような、スケールの大きな事態へと発展していく本書だが、その中心となっているのはあくまでカノン砲であり、その兵器が身にまとっている第二次世界大戦における「沖縄戦」という、過去の悲劇であることは間違いない。老人と孫という、大きく年代の隔たった登場人物たちが、まるで左右対称となるように配置された時点で、過去の戦争体験をどのように引き継いでいくのか、というテーマが物語上に組み込まれているのは容易に想像できる。では、著者はいったいどのようにしてその引き継ぎを行なおうとしていたのか?

 子どもながらに得た正解は「戦争反対」ということだ。間違ってはいないが、何かが欠落していた。欠けているものが今わかった。感情だ。

 著者の描き出す老人たちは、いつも若者以上に元気で、しかもしたたかな一面をもっている、ひとクセもふたクセもある者たちばかりである。宗教と秘密結社の力で絶対君主として村を支配しているカマト、金持ちからモノを盗むことに一片の良心の呵責も感じないチヨ、そして時として殺人を犯すことさえ厭わない樹王――彼らのやっていることは、法治国家としてはけっして許されないものではあるが、しかしこの老人たちが何よりも「村のため」という強い感情でひとつにつながっていることを知ったとき、その姿は非常に格好良いものとして人々の目には映る。自分たちの故郷を繁栄させるためなら悪魔の力でも利用し、どんなに巨大な敵を前にしても退くことのない、老人たちの強い感情――もし戦後生まれの若者たちが受け継いでいくとすれば、そんな彼らの強い意思であり、自分たちの住む村を、その負の歴史も含めて、それでもいとおしいと思う感情なのである。

 兵器はあくまで人殺しの道具であり、戦争はあくまで人殺しの場であり、そこには常に人間の負の感情が蠢く、ともすれば目をそむけたくなるような現実だ。だが、たとえば村の子どもたちにとってカノン砲が自分たちを見守ってくれる、頼りがいのある存在として映ったとき、戦争を一種のおとぎ話――戦後が生んだ現代神話として描くことに成功した本書は、同時に私も含めた戦後生まれの者たちが、過去の日本がたどった、けっして忘れてはならない戦争体験をどのように受け止めるべきなのかを示すことにも成功したと言うことができるだろう。(2004.04.24)

ホームへ