【文藝春秋】
『私の男』

桜庭一樹著 
第138回直木賞受賞作 



 出版社のアスペクトが出しているフリーペーパーのなかに、精神科医の春日武彦が連載しているエッセイがあるのだが、そのなかに「人間は妙な具合に理詰めになると不幸へと歩む傾向がある」とあったことが、妙に印象に残っている。たとえば人が自殺したり、あるいは人を殺したりといった、いわゆる「一線を超える」行為に走る場合、それは他人からすれば突発的な行為のようにしか思えないことが多いのだが、じっさいに当人の心のなかでは、理詰めで自分自身を追いこんでいくということが起こっているのだという。つまり、一線を超えるのはけっして衝動とかいった感情的なものではなく、無理やりに理論武装をし、歪んだ形で自己正当化してはじめて実行できることだというのだ。

 よくよく考えてみれば、こうした妙に歪んだ論理的思考は、殺人などといった物騒なことでなくとも、私たちの周囲でも、そして自分自身においても、しばしば見られることであったりする。あきらかにヒモでしかない駄目な男からどうしても離れられない女や、ギャンブルからどうしても足を洗えない男など、自分のなかでは真実となっている、じつに都合のいい論理が展開されているからこそそこに囚われ、なかなか抜け出すことができないのだと考えると納得がいく。論理的な思考というと、それだけですべてが正しいように思えてしまう、ということもあるのだろう。私自身のこれまでの経験を顧みても、何かの結論を出したり、何かを選択するさいに、それが正しいのかどうか、つじつまの合うことかどうか、ということをいつも考えるのだが、ときどきそれが結果ありきで導き出した屁理屈にすぎないのではないか、と思うことがある。

 感情的なことであれば、あくまで一過性のものであり、しばらくすれば冷静にもなれる。だが、一度それが論理的だと思い込んでしまえば、そこに固執するがゆえに、それ以外の選択肢を否定するという落とし穴に嵌ってしまうことになる。今回紹介する本書『私の男』を読み終えて思ったのは、淳悟と花という親子のねじれて歪んだ関係は、本来であれば無条件であるべきはずの親子の愛を保つのに、何らかの理詰めが必要だったがゆえに生まれてしまったものではないか、ということである。

 二つのべつべつの鉢から生えたほそい貧相な木が、鉢を近くにおきすぎたせいで途中から絡まって、一本の木みたいに上にのびているのだ。――(中略)――どちらがどちらを支えているのか、互いに困っているのか、必要としあっているのかもよくわからない、それはなんともグロテスクなフォルムだった。

 本書のタイトルにもなっている『私の男』という言い回しは、本書の冒頭で腐野花が、養父の淳悟を指して呼ぶものでもある。「お父さん」でもなく、「パパ」でもない、「私の男」という呼び方は、まさにそう呼ぶしかないと言うべきふたりの関係を表す、絶妙な表現である。職場で知り合った尾崎美郎との結婚を明日に控え、幸せ一杯であるはずの花に、まったくもってそうした雰囲気が感じられないのは、彼女の意識が美郎にではなく、淳悟のほうにばかり向いてしまうからに他ならない。花の一人称で語られる本書冒頭の章において、彼女は養父に嫌悪を感じながらも、常に淳悟の存在を意識し、彼がどうしているかにばかり気を取られているように思える。そのある種の執着は、とても結婚直前の花嫁のものとは思えないのだ。

 離れたいと願い、離れなければと思いながら、どうしようもないほど強くつながってしまって、いざ離れようとすると不安になってしまうという矛盾した意識――親子という無条件の関係において、その距離を意識すること自体、不自然なことであるが、このふたりの親子が、親子というよりは男と女の関係を匂わせる表現は、じつは本書の冒頭部分からすでに出てきている。そうしたどこか歪んだ、退廃的な関係について、二十五歳の花は自分でもなぜそうなったのか、養父のことを自分がどのように思っているのか自分でもよくわからなくなってきていると感じているのだが、全部で六章からなる本書が、その人称を変えながら過去へ――花と淳悟が出会った時点へと、少しずつ時間をさかのぼるような構成となっているのは、当人にもわからなくなってしまった自身の気持ち、そしてわかっていると思っていた淳悟の気持ちと、複雑に絡み合ってしまったその関係を、少しずつ、糸をほぐすように解いていくための仕掛けでもある。

 その過去への遡行の過程において、ふたつの殺人事件がおこる。そして本書冒頭においても、過去の殺人事件をほのめかすような表現が出てくる。だが、それらは解決すべき謎としてではなく、あくまで花と淳悟の関係が「チェインギャング」というタイトルの、上述で引用した絵画のようになってしまった、ひとつの通過点としての位置づけとなっている。そうした殺人事件の、物語上での使われ方という意味では、同著者の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を彷彿とさせるものがある。この作品における海野親子の関係も、その歪みという点では本書における腐野親子のそれと同一の匂いがある。ただその歪みが、際限のない暴力や嘘という形で出てくるか、あるいは肉体的な欲望という形で出てくるかの違いに過ぎない。

『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の書評のなかで、私はそこに子どもであるがゆえの無力さというひとつのテーマ性をとりあげた。親の暴力を虚言という砂糖菓子で包み込み、そこに自分の生きる理由を見出そうとしたように、花もまた、自分が血の人形であるという理由でもって親の性癖を正当化しようとしている過程が、本書のなかでは書かれている。誰かを愛するのに、あるいは誰かから愛されるのに、なんらかの理由を必要とする状況というのが、こんなにも不幸なことなのか、と思わずにはいられない。そしてその歪んだ愛情は、ふたつの殺人事件を経てますます歪んでいき、腐臭を漂わせ、もはやその原型すらわからないようになっていく。まるで、枝どうしが深く絡み合いすぎて、幹を切っても倒れないまま立ち枯れていく、密生した森のなかの木のように。

 奪われて育ち、おおきな空洞に、なった。大人になって、奪って、生きのびる。あの人はそうなのかもしれない。大人だけど、熟することなく、腐るだけだ。

 本書のラストにおける、花の決然とした想いからは、本書冒頭における淳悟への矛盾した想いに対する苦悩を想像するのは難しい。だが、本書を読む私たちは、本能的にさとっている。このふたりは、どうあがいても不幸になるしかない、と。そして二十五歳の花もまた、そのことに気がついている。だからこそ、彼女の苦悩は増していくことになる。なんともやるせない気分にさせられる作品である。だが、ともすると目を背けられがちなそうしたテーマを、あえて物語の中心としてもってきた意義は、けっして小さなものではない。

 家族とは何なのか、血のつながりとはどういう意味をもっているのか、そして、真に無条件の愛情というのはありえるものなのか――親子の関係を理詰めでしか構築できなかったふたりの男女の、大きな不幸の形が、本書のなかにはある。(2008.02.23)

ホームへ