【講談社】
『密室殺人ゲーム王手飛車取り』

歌野晶午著 

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 たとえば、自分は完全に安全な場所にいるとして、そこから人々が殺し合う風景を優雅に眺めるといった機会があったとしたら、自分はその光景を楽しむことができるだろうか、ということを考えてみる。現実問題として、これにもっとも近い感覚として思い浮かぶのは、ニュースなどのメディアで外国の紛争状況をまのあたりにするというものであるが、たとえ、どれだけ生々しい殺戮シーンを見せられたとしても、そのことで一時的な興奮はあるかもしれないが、その手の嗜好の持ち主でないかぎり、けっきょくのところは他人事、たんなる情報のひとつとして処理されてしまうのではないか、という気がする。なぜなら、それがどれだけ自身の身近で起こったことだとしても、直接自分に関係しないものであるかぎり、それをまぎれもないリアルとして想像するのは困難であるからだ。日本のどこかで毎日のように生じている交通事故が、他ならぬ自分の身にふりかかるかもしれない、となかなか想像できないのと同じ理屈である。

 ゲームというのは、なんらかの形で興じる者たちの勝敗をはっきりさせる仕組みをもつものであるが、たんに勝敗を決めるだけのゲームに人々をどれだけ真剣にとり組ませるか、ということを考えるとき、そこには自然とふたつの方向性が生まれてくる。ひとつは勝負に勝つことで得られるもの、もうひとつは、勝負に負けることで失うもの、という方向性であるが、たとえゲームの内容が「じゃんけん」という単純極まりないものであったとしても、このふたつの要素が大きなウエイトを占めることで、人々はそれに熱中する。麻雀は非常に複雑な要素を持つ、それだけでもなかなか面白いゲームであるが、何らかの「賭け」の要素のない麻雀をするプレーヤーが極端に少ないのと、同じ理屈である。

 これらのことをまとめると、次のようになる。ゲームの内容がどれだけリアルかどうかとは無関係に、そこにプレーヤー自身の損得が関わってくるかどうかで、ゲームへの熱中度は大きく左右される。今回紹介する本書『密室殺人ゲーム王手飛車取り』は、ミステリーという分野のゲーム性について、ある意味で究極まで突きつめた作品だと言うことができる。

 オレらがやってるのは犯罪捜査じゃない。推理ゲーム、推理パズルだ。ジグソーパズルは一つのピースでも余っていたら完成とはみなされない。――(中略)――同じように、出題者がばらまいた手がかりは余剰なく回収し、隙間なく台紙にはめ込んで一枚の絵として完成させてもらわないと。

 ミステリーをこよなく愛する同志五人が、ネット上のAVチャットでゲームをしている。ひとりが出題者としてミステリーの謎を提示し、残りの四人がその謎を推理して真相を言い当てるという推理ゲームだ。だが、出題される謎はフィクションではなく、現実世界でリアルに起こった事件である。密室殺人、アリバイ崩し、連続殺人の法則性や首なし死体――およそ、ミステリーにおいては出尽くした感さえあるさまざまなトリックを、たんに思いつくだけでは満足できなくなった彼らは、その思いついたトリックを現実世界において実行に移し、たしかに成立することを証明したうえで、その事件を問題として提示しているのだ。

 つまり、本書に登場する人物たちは、いずれもより画期的なトリックを成立させるためだけに殺人を犯す犯人であると同時に、その謎を解明する探偵でもあるという状況が、ここでは成立していることになる。もし犯行において何らかのへまをしでかせば、自分が逮捕されるだけでなく、下手をすればこのゲームに参加した全員の身の破滅につながりかねない。自分が犯人として捕まらないというのは当たり前、そのうえで、回答者をあっと驚かせるようなトリックを成立させるというスリルが、彼らをゲームに駆り立てる原動力となっていると言ってもいい。

 殺人事件において、犯人の動機よりもいかに斬新なトリックを仕掛けるか、という点に特化した本格ミステリーは、「読者への挑戦状」に象徴されるように、もともと作家と読者が勝負するゲームに近いものがある。そのゲーム性を究極なまでに突き詰めた本書では、それゆえに「誰が犯人か」という命題は究極なまでに無意味と化す。そもそも犯人は出題者としてすでに確定しているのだ。それは同時に、その犯人によって殺される被害者の存在もまた意味をなくすということであり、それゆえに本書のなかで頻繁に起こることになる殺人事件は、もはやゲームを成立させるための記号に近いものとして処理されてしまう。もともと本格ミステリーにはそういう傾向はあったが、その部分が露骨なまでに強調されている本書の読みどころがどこにあるのかは、言うだけ野暮だろう。トリックを解き明かすこと――それこそが本書で語るべきすべてであり、じっさいに四人の回答者もまた、ひたすら純粋に与えられた謎を解き明かすことに心血を注ぐことになる。だが問題なのは、本書のなかにおいてそのトリックは、あくまで現実世界で起こった、現実の殺人事件だという点である。

 犯人であると同時に探偵でもある彼らのゲームは、本格ミステリーにおける役割というものさえも意味のないものにしてしまう。そしてそのことを象徴するかのように、本書に登場する人物もまた、本名はもちろんのこと素顔すら隠されている。殺人事件をゲームとして実行している以上、そのあたりの用心はむしろ当然とさえ言えるものだが、殺人事件が彼らにとってのまぎれもないリアルであると同様に、彼ら自身が記号ではなく、生きた人間であり、人間社会のなかで生活しているというのもまぎれもないリアルである。この、ゲームとしての虚構性と、まぎれもないリアルとしての現実――本書のなかで私たち読者が感じるこのふたつの要素の乖離は、じつは非常に危うい均衡のもとに成り立っているものだ。本書を読み進めていくと、彼らはこの推理ゲームをじつに二年間も続けてきたことがわかるのだが、その危うい均衡は、そのゲームがフィクションではなくリアルである以上、いつかは崩れてしまうことを運命づけられている。

 探偵ごっこは長く続いている。一人で毒の実験やアリバイごっこをやっていた時も含めれば、断続的ではあるが十年近く遊んでいることになるから、驚異的な持続性だ。
 しかし十年後もこうして遊んでいるとは、頭狂人にはとうてい思えない。

 過去にどれだけ熱中できる趣味をもっていたとしても、ある日突然、そのすべてがつまらなくなって、どうでもいいもののように思えてしまうことがある。普通の趣味であれば、いっとき時間を置いたりすることで、あるいはまた別のものの見方や考え方が生まれてくる可能性もあるが、殺人というリアルをもって謎解きのスリルを追及してきた推理ゲームは、単純に誰かが「いち抜けた」で済むような問題ではなくなっている。はたして、彼らがもてあそぶ虚構とリアルの均衡がどのようなきっかけで崩れるのか――あるいは誰がその均衡を崩すのか、そしてそこにどのような意味があるのか。その内容とは裏腹に、どこか人間という生き物の本質に迫るような何かを、本書のなかに感じずにはいられない。(2013.01.25)

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