【早川書房】
『ミスティック・リバー』

デニス・ルヘイン著/加賀山卓朗訳 



 ニュースや新聞などで毎日のように報道されるさまざまな犯罪――毎日が同じことの繰り返しに思えるような、日々の生活に汲々として生きている私たちは、ときにそんな犯罪行為を自分たちの生活とはまったく関係のない、まるで別世界の出来事であるかのようにとらえてしまうことがある。だが、私たちはふだん平凡で、それゆえに平穏な暮らしを営むことをあたり前のように思っていながら、心のどこかでは、人は誰もが犯罪被害者になる可能性があるし、またそれと同じくらい犯罪加害者となる可能性もあることを知っていて、だからこそ私たちは、犯罪が存在するという事実を、ともすると私たちの現実の生活から切り離そうとしているのではないか、と考えることがある。

 はたして人は、人だから犯罪に走るのか、それとも犯罪が人を突き動かしていくのか――それは永遠に手の届かない命題のひとつであるが、そうである以上、もし人が犯罪というものを、あくまで自分たちとは無縁のものとして扱いたいのであれば、犯罪にかかわるものすべてを切り離してしまうしかない。そしてそんな彼らにとっては、犯罪加害者であっても、被害者であっても、犯罪と関係したという意味では、本質的に同等だと考えてしまう。
 人はしばしば平凡な日常に倦み疲れ、あるいは退屈し、なにか非日常的な出来事が起きやしないかと期待したりする。ニュースや新聞、あるいは小説やドラマなどで展開する事件は、たしかに彼らにとっての「非日常」であるが、だからといって誰もがそうした「非日常」が、まぎれもない「現実」となってしまうことを望んでいるわけではない。仮にそれを望み、現実になったとして、その後にやってくるのは確実な後悔のみだ。人は誰も犯罪加害者になどなりたくはないし、それ以上に犯罪被害者にもなりたくない。どんな形であれ、人は犯罪そのものに関わりなどもちたくはないのだ。

 だが、それでもなお「犯罪」という非日常に巻き込まれてしまったとしたら、私たちは何を思い、どんな行動をとることになるのだろうか。

「生きて見つかったとしても、あの子はもう“傷もの”だ。二度と元には戻らない」

 本書『ミスティック・リバー』に登場するショーン、ジミー、デイヴは小さい頃の遊び仲間だった。ある日、まだ少年だった三人の前に、警察らしき二人連れの男がやってきて、デイヴを車に乗せて連れ去っていった。デイヴは4日後に家に戻っては来たものの、三人の仲が以前のようになることはなかった。彼らの中で、何かが決定的に変わってしまっていた。デイヴはけっして何も語らなかったが、その空白の4日間に小児虐待を受けたのはあきらかだった。
 それから25年後、ショーンは州警察の刑事、ジミーは雑貨店の経営者となり、デイヴは薄給の会社を転々としていた。ある日の深夜、デイヴは血まみれになって家に戻り、あきらかに何かを隠している様子だった。そしてその後、何者かの手によって殺害されたジミーの娘が発見される……。

 はたして、ジミーの娘ケイティを殺害したのは誰なのか? たとえ本書を読んでいない人であっても、上述のように本書の内容を説明すれば、誰もがデイヴを怪しいと感じるに決まっている。そして本書そのものが重点を置いている謎も、誰が犯人か、ということではなく、犯人は本当にデイヴなのか、という部分である。もしデイヴであるとすれば、どんな理由があってそんな殺人を犯したのか――物語はショーンとその上司であるホワイティによる捜査の行方を追いながら、もう一方では本書の登場人物たちの揺れ動く心の様子や、25年前の事件からショーンたちがこの地でどんな人生を送ってきたのか、といったことを徐々に掘り下げていく。

 ジミーはショーンに語る。「もし、おれたちがデイヴ・ボイルとあの車に乗っていたら?」と。25年前のあの事件は、デイヴにとっては犯罪被害者として大きなかかわりをもってしまった出来事であり、そういう意味ではその後の彼の人生を大きく変えてしまった事件であることはたしかである。そして、ケイティ殺害の有力な容疑者としてデイヴの名前が挙がるにつれて、ショーンだけでなく私たち読者もまた、意識は25年前にデイヴの身に起きた事件へと遡っていかざるを得ない。過去に起きた事件が、めぐりめぐって今の事件とどのような因果関係をもって結びつくのか――だが、私たちは同時に、その事件がジミーやショーンに与えた影響というものにも注目すべきである。なぜなら、ジミーは今でこそ堅気であるが、かつては何人もの部下をかかえた天才的強盗団の親玉であり、いわば犯罪加害者として刑務所に服役していたこともある身であり、いっぽうのショーンは、殺人課刑事となることで、いくつもの犯罪にかかわる道を選んでいるからだ。

 25年前のあの事件がきっかけかどうか、それははっきりとはわからない。本書をよく読みこんでいくと、かつて遊び仲間であった3人の境遇はそれぞれ大きく異なっており、子どもながらそうした境遇の違い、身分的な違いを意識していたことがわかってくる。そういう意味では、3人は純粋に遊び仲間だったとは言いがたいものを抱えていたとも言えるのだ。しかし、きっかけはどうあれ、25年前のあの事件は、3人が3人とも犯罪という、できることなら被害者としても、加害者としてもかかわりたくはないと思っている「非日常」とわかちがたく結びつく役割をになったという見方もできる。

 何か言いたかった。ジミーに、おれもあの車に乗っていたらどうなっていたか考えたことがあると言いたかった。――(中略)――あの日から、どうやって生きていけばいいのか本当のところはわからず、ときに自分から実体が消え、無重力の中でふわふわ浮いているような気がすると。

 人は誰もが犯罪被害者となり、同時に犯罪加害者にもなりえる、という真理――デイヴはもちろんのこと、ショーンにとってもジミーにとっても、それはけっして見過ごすことのできない深い問題として、常に彼らを悩ませてきた。本書のいちばんの読みどころは、非日常であるはずの犯罪によって、図らずもその運命を歪められてしまった者たちが抱える心の苦悩、居場所のなさ、抑えきれない負の感情であり、それらが最終的に引き起こしてしまう、さらなる悲劇への流れである。だが、それはいったい、何が原因であり、誰が悪かったのだろうか。本書が示すラストは胸が張り裂けそうなほどやるせないものだ。そしてそれこそが、犯罪がもつ本質であることに、読者は気づくことになるだろう。

 一度罪を犯した者は、その後も犯罪を繰り返すものなのだろうか。過去に犯罪の被害にあった者は、そのうち自身が犯罪者となってしまうのだろうか。そしてもし、それが真実であるとすれば、その原因はその当人だけの問題なのだろうか。現実と正面から向き合って生きることの難しさ、人を信頼し、理解しあうことの困難さを前に、それでも生きていこうとする人たちの姿が、本書の中にはたしかにある。(2004.05.29)

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