【白水社】
『ミスター・ピップ』

ロイド・ジョーンズ著/大友りお訳 



 たとえば小さな子どもにとって、世界とは非常に限定されたもの――つまり日々の生活において接するものがすべてであり、自分の知らないところにそれ以外の広大な世界が広がっていると想像するのは難しかったりする。もちろんそれは、人間が主観の生き物であるという意味では正しいことであるし、子どもにかぎらず、大半の大人にとっても、世界というのはけっきょくのところ自分の身近にあるものがすべてだ。だがそれでも、私たち大人はそれまでの人生で多くの人と出会い、それぞれが自分とは異なる人生、自分とは異なる環境のなかで育ってきたのだと想像することはできる。

 自分の主観が接する、けっして広くはない世界だけがすべてではない、という感覚は、人生を生きていくうえでとても重要なものではないか、と最近になって思うことがある。なぜなら、その人にとってまぎれもない現実の世界がもし悲しみや苦痛をもたらすものであった場合に、そうした感覚は一時的なものであれ、一種の避難場所として機能してくれるからである。そして子どもというのは、人生経験がまだ乏しく、自身の自由もさまざまな方面で制限されているがゆえに、そうした逃げ場所がないと八方ふさがりになってしまう。それは、子どもにとっては相当に過酷なことであるはずだ。

 その子は、木に登っていたわけでも、木陰でむくれていたわけでも、渓流で水遊びをしていたわけでもなく、何と本の中にいた。これまで、本の中で友だちを見つけたり、他の人の体の中に入り込むような気持ちになることができるなんて、誰も教えてくれたことはなかった。

 本書『ミスター・ピップ』のタイトルを見て、それがどこからとられたものなのかピンとくる人は、イギリスの作家チャールズ・ディケンズに相当思い入れのある方に違いない。「ピップ」というのは、ディケンズの小説『大いなる遺産』の主人公の名前であり、また本書の語り手であるマティルダが、ミスター・ワッツの朗読によってはじめて知ることになる、彼女にとっての心の拠り所となった小説の登場人物でもある。だが、本書を読み進めていくと、本書のタイトルが別の意味合いも重ねていることが見えてくるようになる。そしてその鍵となる人物こそ、ミスター・ワッツその人である。

 ミスター・ワッツ――トム・クリスチャン・ワッツは、物語の舞台となるブーゲンヴィル島に住む唯一の白人である。以前は彼のほかにも白人がいて、島の鉱山で働いていたのだが、パプア・ニューギニアからの独立戦争をきっかけに始まった島の封鎖政策にともなって、白人たちは皆島から引き上げてしまっていた。そのなかにはマティルダの父親も含まれていたのだが、そんななか、島から逃げるわけでもなく、気の違った黒人グレイスとともに、ピエロの赤鼻をつけて島を練り歩くミスター・ワッツの姿は、彼が唯一の白人であることを差し引いても、相当の変わり者という印象を与えるに充分なものだった。

 そんな変わり者であるミスター・ワッツが、島の封鎖以降閉鎖されていた学校の教師として、マティルダたちに授業をすることになった。あくまでマティルダの一人称で進んでいく本書では、その裏にどのような経緯があったのかまでは書かれていない。だが教師として教壇に立ったミスター・ワッツは、それまでの記憶にある彼とは別人のように毅然とした物腰で子どもたちに接し、そして『大いなる遺産』を朗読することで、彼らに島の外に広がる世界を想像する術を教えた。とくにマティルダにとって、それは彼女のこれまでの世界を一変させる重要な出来事となった。

 豊かな緑に溢れた肥沃な島という、いかにものんびりとした南国のイメージとは裏腹に、マティルダたちを取り巻く状況はかなり過酷で、島の独立を目指す革命軍と、それを阻止しようとするレッドスキン政府軍との抗争によって、日常生活に支障をきたすような日々が続いている。政府軍の残虐行為が噂され、ヘリコプターの音や銃声におびやかされ、島の封鎖によって物流すら滞ってしまった状況は、間違いなく人々の日常からはかけ離れたものである。ミスター・ワッツの授業は、島の子どもたち――自分の見聞きする現実しか知るすべのないか弱き者たちに、それとは別の世界がたしかに存在することを知らしめることを目的としたものである。だからこそ彼は、算数やアルファベットの綴りといった教育だけでなく、『大いなる遺産』の朗読や、島の大人たちを教室に呼んで知っていることを話してもらうといったことにも力をそそぐ。

 ミスター・ワッツは、本来的な意味での「教師」ではない。だが、そのことを自覚したうえで、今の島の状況のなかで、自分が期待されていることをきちんと把握し、そのことに尽力していたという意味では、教師以上の役割をはたしたと言えるし、だからこそ魅力的でもある。さらにマティルダの立場にとっては、熱心なキリスト教信者であり、ことあるごとに無神論者であるミスター・ワッツと対立する母親ドロレスとは対極に位置する大人であり、相違する価値観とそれぞれの人間関係の狭間にあって、良くも悪くもマティルダの心を揺り動かす存在でもある。

 ミスター・ワッツとは何者なのか――それは、本書全体を貫く大きなテーマのひとつではあるが、ミステリーのごとくその謎の核心に迫ることそのものが重要なわけではない。重要なのは、むしろ変わっていこうとする人間としての意思のほうだ。

「マティルダ、誰も完全な人間にはなれないよ」と彼は言った。「ピップも私たちと同じ人間だ。ピッブはなりたい人になれる機会を与えられ、今、彼は自由に選べるんだ。間違ったことを選ぶ場合もあるけれど、それも彼の自由なのさ」

 本書には、この「間違ったこと」を選んでしまう者たちが数多く登場する。そしてその選択は、必ずしも悪意とともになされたわけではなく、むしろ自身の信じる正義や信念にもとづいたものであることが大半である。だが、そうした選択の間違いがときに根深い抗争の種を巻き、本書においても後に大きな悲劇を招くことになる。だが逆に言えば、そうであるからこそ人間らしいということであり、そこに深いドラマが生まれることになる。

 島から出る「自由」を奪われた、マティルダたち島民にとって、本来であれば島から出られるにもかかわらずそうしないミスター・ワッツという人物は、やはり大きな謎である。そしてマティルダにとって、『大いなる遺産』はたしかに彼女の人生を変えた小説ではあるが、そこに登場するピップとは、自分自身であり、同時にミスター・ワッツその人でもあるのだ。そういう意味では、本書はマティルダによるミスター・ワッツというひとりの人間を補完していく物語という捉えかたもできる。大きな悲劇や不幸を、物語の力で乗り越え、やがて回復していく物語――そこには、人間であるがゆえの弱さと強さとがたしかに書かれている。(2011.11.24)

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