【東京創元社】
『ミスター・ミー』

アンドルー・クルミー著/青木純子訳 

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「読書は、他人にものを考えてもらうことである」というのは、ドイツの哲学者ショウペンハウエルが『読書について』のなかで述べていることで、ある命題について、本のなかに書かれていることや誰かが言ったことを、自分のなかで深く思索することもなく、あたかも自分の考えであるかのごとく風潮してまわる凡庸な知識人たちを痛烈に批判する言葉でもあるが、たしかに、ある事柄を知識として知っているということと、その知識が自身の血肉となり、人生を生きるうえでの力となっているということとのあいだには、それこそ天と地ほどの差があると言わなければならない。

 これまで知らなかったことを知ることができる、今までわからなかったことがわかるようになる、というのは基本的に楽しいものだ。以前であれば想像することさえなかった新たな視点で世界を捉えなおすことができる、あるいはそのためのきっかけを与えてくれる本は、私たちが生涯かけても体験できないような知識や考えを追体験させてくれるものである。だが同時に、そうした本を読むことで得られるのは、あくまで知識であって知恵ではない、ということも私たちは知っている。読書で知りえた情報や知識をどのように咀嚼し、まぎれもない自分自身の考えとして消化していくのかは、ひとえに読者自身にゆだねられているのだ。

 A・J・ジェイコブズの『驚異の百科事典男』が面白いのは、百科事典をまるごと「読む」ことで自身の知的レベルを上げようとすることの滑稽さが際立っているからに他ならない。ただ知識がある、というだけでは、けっして頭がいいということにはならないし、ましてや森羅万象を支配できるわけでもない。そういう意味において、本書『ミスター・ミー』に登場する愛書家の老人は、書物の知識にとらわれた頭でっかちな人間の象徴であり、それはつまるところ、本書の中心をなしているジャン=ベルナール・ロジエの「百科全書」が象徴するものでもある。

 本書は大きく三つの物語が、交互に入れ替わりつつ展開していく。ひとつは86歳になる愛書家の老人を主体とするパートで、本に囲まれ、好きなだけ本を読めればそれで幸せという、いまだ独身の彼がたまたま手に入れた書物の参考文献として、ロジエなる人物の編纂したという「百科全書」の存在を知り、なんとかしてその本を見つけ出して読んでみたい、という愛書家らしい衝動に駆られることになる。近くの図書館でパソコンという便利な機械に触れた彼は、さっそく同じものを購入、慣れないながらもなんとかインターネットに接続し、ロジエの「百科全書」の情報を集めはじめるのだが、なぜか行き着いた先が、全裸の女性が本を読んでいるというライブビデオのページで、そこから思わぬ方向に物語が転がっていくことになる。

 後に、彼こそがタイトルにある「ミスター・ミー」であることがわかるこの老人は、基本的に知識は豊富であり、また未知のものへの好奇心も衰えることなく持ちつづけている癇癪とした老人だが、およそ世間での常識や生活全般にかんする事柄にはとことん無頓着で、ひたすら自身の内にある知識の世界に生きる変わり者として書かれている。それゆえに、あきらかにエロ目的のライブビデオのサイトをまのあたりにしても、それが後ろめたいもの、恥ずかしいものであるという認識をもつことができないどころか、全裸の女性が読んでいる本――「フェランとミナール」なるタイトルの本こそが、ロジエの「百科全書」を知る手がかりに違いないと曲解してしまうのだ。

 一事が万事こんな調子で、それこそ天然ボケをかましっぱなしのミスター・ミーに対して突っ込みどころが満載という本書であるが、ここで重要な要素があるとすれば、それは彼が純粋に知識というもののみに傾倒しているがゆえに、かえって物事を正しく判断できないまま、とんでもない方向に理詰めの思考を展開してしまう、という点である。そしてその傾向は、他の二つの物語においても共通している。

 たとえば、十八世紀のフランスを舞台とする第二のパートでは、フェランとミナールというふたりのしがない浄書屋が、謎の人物からロジエの「百科全書」の清書を依頼されるのだが、その原稿が想像以上に危険な代物であり、このままでは自分たちの命も危ないと察したふたりの奇妙な逃亡劇の顛末が書かれている。ふたりはさまざまな紆余曲折の末に、かの有名なジャン=ジャック・ルソーと知り合いとなるのだが、「百科全書」の原稿を読み込んでいったミナールは、徐々にそこに書かれている宇宙理論の虜になり、どんどん現実を逸脱するような考えに囚われていくのだ。また、第三のパートであるペトリ博士の物語では、彼がルソーの研究者という点で第二のパートとのつながりを見出すことができるのだが、ルソーの著作『告白』のなかに登場するフェランとミナールなる人物はルソーの創作であって、現実には存在しなかったという自論を展開していく。

 いっけんバラバラなように見えるこの三つの物語が、どのような関係で結びついているのか、そしてこの三つの物語が最終的に見せてくれる形がどのようなものなのか、という謎が本書の読みどころであることは否定しない。じっさい、本書の三つの物語は、さまざまな部分で共通の要素をもっており、その中心にあるのがロジエの「百科全書」なのだが、かつてディドロとダランベールが編纂したメジャーな「百科全書」ではない、もうひとつの「百科全書」がはたして本当に実在するのかどうかは、じつのところ最後まではっきりしない、というのが本書のキモである。その噂はあるし、そこに書かれている宇宙理論や有機ネットワーク、自動計算機械の設計といった原理も出てくる。またその本に影響されたという本や論文もあちこちから発見されるのだが、そうした知識が集約された一冊の本という形では、ロジエの「百科全書」はこのうえなく曖昧な存在でしかないのだ。そして、本書がロジエの「百科全書」を中心に物語を展開している以上、三つの物語自体もまた、どこまでが真実でどこまでが虚構なのかをはっきりさせるすべは、じつはどこにもないことに読者は気づかされることになる。

 ジャン=ベルナール・ロジエがすべての背後に潜んでいるに違いない。彼こそは――(中略)――順序もバラバラなこの書物を、中身ゼロのこの奇妙な『百科全書』をまとめ上げた人物だ。ロジエは狂人か、はたまた天才か、あるいはそのいずれでもあると考えられそうだった。

 ミスター・ミーにしろミナールにしろ、あるいはペリエ博士にしろ、いずれも頭でっかちな人間であり、つまるところ、知識によって彼らが何を生み出そうとしているのかをつづった作品が本書ということになるのだが、そんな彼らの対極に位置し、また彼らの存在自体をこのうえない皮肉と化すために女性の登場人物がいる、というのもひとつの特長である。男と女がいるときに、当然のように起こりうる性的関係が、けっして子孫を残すという生物本来の行為へと結びつくことはないのだ。とくにペリエ博士のパートにおいて、彼は教え子の学生であるルイーザへの恋情を寄せるのだが、難解な知識を有し、ルソー研究の大家でもある彼の教養は、ルイーザという存在の前には無力同然、まるで少年のごとくうぶな男でしかない。そして、そんな彼がそれでもなお知識をもって世界と対峙しようとするがゆえに、認識のズレはますます大きくなっていく。そこが喜劇的でもあり、また悲劇的でもある。

 女性は自然の摂理として、子どもを産み出す能力をもつ。人が人をつくるという神秘――だが男性は、どれだけ高尚な理論を編み出したところで、その子を成す能力にはとうてい及ばない。知識を欲し、知識に溺れ、知識を中心とする世界に生きる者たちの目に、はたしてロジエの「百科全書」はどのような意味をもち、彼らに何をもたらすことになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.07.03)

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