【集英社】
『百舌の叫ぶ夜』

逢坂剛著 

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 人間の精神は、いったいどこまで複雑に屈折し、どこまで深い狂気をその内にたたえておくことができるのだろう。そして、そういった狂気が人間の強さを支える要因のひとつであるとするなら、人間はどこまで強くなることができるのだろう。どんなに権謀術数に長けた政治家も、どんなに巨大な資産を持ち、経済の裏事情に精通している企業のトップも、そしてどんなに強力な権力を持つ国の指導者も、ある種の狂気ともいえる信念に突き動かされている者にはかなわない。本書『百舌の叫ぶ夜』に書かれた物語をひとつのレースだとするなら、そのレースを制したのは狂気そのものだったのかもしれない。だが、勝者には賞金も栄誉も、そして祝福の拍手さえ与えられることはない。

 すべてのはじまりは、東京の新宿歌舞伎町で起こった爆弾破裂事件だった。爆弾は、フリーライターであり左翼の過激派集団"黒い牙"の幹部である筧俊三のボストンバッグに仕掛けられており、本人と近くにいた主婦が即死、二十一人が重軽傷を負う大惨事となった。即死した主婦の夫であり、警視庁公安部警部である倉木尚武は、捜査に私情は交えられないという理由で今回の事件の担当から外されてしまうが、事件そのものと、その捜査にあたる公安警察の動きに何か不審なものを感じとり、倉木はその胸の内に恐るべき執念の炎を燃やしながら、たったひとりで事件の解明へと乗り出していく。
 いっぽう、その爆弾事件の数日後、石川県珠洲市の病院に、ひとりの男が運び込まれた。彼は後頭部に負った傷のせいで自分に関するいっさいの記憶を失ってしまっており、しかも豊明興業なる組織の回し者たちに命を奪われそうになる。彼は追手たちの手をかいくぐりながらも自分の失われた記憶を求めて東京をさまよううちに、どうやら自分はあの爆弾事件の当事者であり、その口封じのために命を狙われていること、豊明興業が何かの写真を探していて、その場所を自分が知っているとにらんでいること、そして宏美という妹がいるらしいことを知る。

 記憶喪失の男は、本当に豊明興業が言うとおり、殺し屋の新谷和彦なのか。豊明興業が探している写真とは何なのか。妹の宏美はどこにいるのか。そして、あの爆弾事件の犯人は、本当に彼なのか。本書を読み進めていくと、この物語がさまざまな人間のさまざまな思惑によって、じつに複雑怪奇な事情を含んだものであることがわかってくる。本書が見事なのは、そんな複雑な事情を、ひとつひとつ丁寧に解きほぐし、最終的にはこれ以上はない、という絶妙な順序に並べて読者に提供している点であろう。物語は、ときに時間を前後し、あるいは小さな謎の解決を与えるかわりにさらに大きな謎を投げかけたりしながら、倉田と記憶喪失の男という線をふたつの軸として、徐々に物語の裏に隠された真相へと近づいていく。倉田は半ば強引とも言える独自の調査によって、捜査一課の刑事大杉良太や、同じく公安の明星美希などを巻きこみ、豊明興業の回し者によって重傷を負いながらも、今回の事件の裏で見え隠れする公安上層部の影を鋭く見据える。また、記憶を失った男は、豊明興業の回し者を返り討ちにしながら、徐々に自分が失った記憶を取り戻していく。そして、ふたつの線が運命に導かれるかのようにある一点で交わったとき、物語はすべての真相に向けて怒涛のごとく流れることになるのだ。

 本書は非常に洗練されたサスペンス小説であり、また緻密に計算されつくされたミステリー小説でもある。ハードアクション的な派手さはない。だが、登場人物達はそれぞれその胸の内に強固な信念をもち、自分の目的をはたすために、別の登場人物と真正面からぶつかりあう。それは、時には肉弾戦以上に体力を消耗し、時には暗殺道具以上に致命的なダメージを与える、激しい心理戦である。極端なまでに無愛想で、かたくなに自分の信念を貫きとおそうとする倉井、直情的な性格で、半ばケンカ腰で相手を挑発する大杉、必要以上に感情を押し殺し、相手の神経を逆なでするのが得意な明星――どこか屈折していながらも、それを自分の強さにして生きていく彼等の姿に、私たちはふと、自分の心の中にもあるはずの闇を垣間見る。

 狂気的な信念は、間違いなくその人を強くするだろう。だが、その強さをぞんぶんに発揮したところで、なくしてしまった大切なものは、けっして戻ってくることはない。倉井は、そして記憶喪失の男は、何のために戦いつづけるのか。そして最後にどんな答を出すことになるのか。本書を読んで、ぜひその答を確かめてもらいたい。(1999.08.02)

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