【新潮社】
『僕は模造人間』

島田雅彦著 



 今から二、三年ほど前に、ある俳優がこんなことを語ったのを覚えている。「じつは、役者という職業ほど自己を強く表現できるものはない」と。

 常に自分以外の何者かを演じつづけなければならない役者と呼ばれる人たちが、なぜ誰よりも自分を表現していると言えるのか――その俳優が発した言葉の真意がどこにあったのかはともかくとして、私なりに考えたのは、こういうことだ。役者が与えられた役を演じる、という行為は、けっして模倣ではなく、創造とつながっている行為である、と。
 例えば、役者がある歴史上の人物を演じるとき、彼らは常に想像をめぐらせることになる。その人物がそのとき何を考え、どんな感情を有し、そしてどのような想いを抱いたのか――たしかに彼らはそのとき、自分ではない何者かを演じているのかもしれないが、与えられた役の骨組みを決め、肉付けをし、ひとりの生きた人間にまで仕上げて舞台上によみがえらせるには、まず自分がその人物をどのようにとらえるべきか、という個性と想像力が必要となってくる。そして何より、自分が自分以外の誰かを演じている、という自覚――それは、平凡な日常に安住し、現実の厳しさから自分を守るために、あるいは社会の総意に迎合してうまく世の中を渡っていくために、何人もの別人格を使い分けて生活していくうちに、自分が自分の本意でない別の自分を演じていること自体を忘れてしまっている現代の私たちと違って、常に自分というものを見つめなおす機会がある、ということでもあるのだ。そういう意味で、役者というのはもっとも純粋な自分自身に近いところにいると言えるのかもしれない。

 本書『僕は模造人間』に登場する「僕」こと亜久間一人という、人を食ったような名前の人物もまた、演じるという行為に対して人一倍自覚していたと言っていいだろう。ただ、彼にとって舞台は日常そのものであり、彼が演じるのはどこにでもいるような、至極平凡ないち少年だったという、それだけのことである。そしてそれは、何も彼ひとりに限ったことではない。人と同じように両親の愛に恵まれて育ち、人と同じように学校へ通い、人と同じように何かの趣味やスポーツに熱中し、そして人と同じように異性と恋に落ちて、心焦がれるような想いを味わったり、両想いになってステレオタイプのデートなんかをしたりする――特別に裕福な人も、特別に貧乏な人も、特別な才能をもっているような人も存在せず、どちらを向いても同じような境遇の人ばかりの中で、私たちは意識するしないにかかわらず、人と同じような日常生活を演じながら生きているのだ。小説に出てくるような劇的な秘密や、目の醒めるようなサスペンスなどとは無縁の、まごうことなき平均的小市民――もちろん、平凡であることを嫌い、ことさら自分という個性を主張しようとする人たちもいる。だが、彼らが行なうことは、例えば奇抜な服装や髪型をするにしろ、悪の道に走るにしろ、バンドを組んで反社会的な歌詞をわめくにしろ、宗教にのめり込むにしろ、抗議団体に参加して国に逆らうにしろ、それらのことごとくは、すでに過去において誰かがやってきたことであり、結局は過去の人たちの模倣をすることから逃れることはできないのだ。

 毒ガスによる大量殺人や大地震、長年にわたる監禁、通り魔による無差別殺人といった、ちょっと前までは信じられなかったような事件でさえ、平凡な日常として認識されつつあるこの現代において、日常に埋没することなく、ドラマチックに生きていくために、亜久間一人は日常を演じていることをあくまで自覚したうえで、その自分自身を茶化す、という方法を選んだ。それは、あの有名な絵画であるモナリザにひげを描き加えることによって、それまでの正統的な評価に対して疑問を投げかけ、新たな解釈を試みようとした流れにも似ている。

 本書の冒頭は、まだ生まれる前――母親の胎内にいた頃の記憶の話からはじまるのだが、その時点からすでに、亜久間一人による人生の捏造、つまり自分自身を茶化すという行為ははじまっている。それは同時に、自分が生まれた瞬間のことを鮮明に覚えている、という有名な独白からはじまる、三島由紀夫の『仮面の告白』のパロディーを彷彿とさせるものがあるのだが、その後の亜久間一人は、平凡でありふれた青春をそれでもあえて演じてみせようとする「僕」から徐々に分裂していきながら、巧みに「僕」を日常から逸脱させようと試みるのである。商業劇団の本番でわざと台本にない行動をとってみたり、運動会の1500メートル走でダッシュしたあげく、わざと肉離れをおこしたふりをして転倒してみせたり、女の子との初体験を目前にしながら、あろうことかその女の子の前でマスターベーションしてみせたり――亜久間一人という、その存在自体がパロディーと言えなくもない人間を抹殺し、別の何者かになることを望んでいた「僕」は、思い出したかのように暴走する亜久間一人をもてあましながらも、どこかでそれを楽しむようなところがあった。そういう意味で「僕」が語っている「亜久間一人は僕であって僕でなく、いつでも他人になり変わるが他人ではない奴」という表現は、極めて的を射たものだと言えるだろう。

 島田雅彦という作家の作品は、以前に読んだ『彼岸先生』のときもそうだったが、なんとも青臭い人物を生み出すことに秀でていることもさることながら、常に「何かと何かの境目」というものを意識させるものがある。夢と現実の境目、真実と嘘の境目、男と女の境目、生と死の境目――何をやっても誰かの後を追うことにしかならない今の世の中では、けっして何者にもなりきることのない境目にいることが、唯一自分らしさを保つ方法だと著者は考えているのかもしれない。だがそれは、パロディーでごまかしつづけるにはあまりに危うい均衡である。

 僕は精神的にも肉体的にも健全であることのコンプレックスをもっと強烈に味わい、特に弱者面した侵略者のふりをもしてみたかったのだ。社会的には強者と見做されている人の苦悩を味わい、その悪あがきとして弱者面した狐に化けて見せようというのだ。

 自分自身の存在を徹底的にパロディー化し、ときには周囲の人たちをもその道具として利用し、ロシアンルーレットのように生と死をパロディーとすることに情熱を燃やしつづけた亜久間一人が最後にはどんな結末を迎えることになるのか、そしてタイトルにある「模造人間」とは何なのか――現代の若者が、あるいはまぎれもない自分自身を追い求めるあまり、陥ってしまいそうな陥穽が、そこにはある。(2000.03.25)

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