【集英社】
『映画篇』

金城一紀著 



 私にとっての映画の思い出というと、映画館で上映された作品の記憶よりも、テレビ放送された映画の記憶のほうがはるかに強い。というのも、私の生まれ育った町には映画館などというしゃれたものはなく、当時一番近い映画館は電車で数駅離れた大きな町にしかなかったからだ。当然のことながら、映画を観に行くという発想は私のなかになかなか育たず、もっぱらテレビ放送される映画をビデオに録画するさいに、CMの部分を省こうとテレビの前に張りついていたり、あるいはその前に放映されていた野球のナイター試合が延長され、せっかくタイマー録画していた映画の、肝心のラスト部分だけが録れてなくてがっかりしたり、といった思い出のほうが色濃く残ってしまうことになった。

 小さいころに比べると、今の自分はテレビのモニターを通して映画を観ること(というよりも、テレビを観るという行為そのもの)に、かなりのストレスを感じるようになってしまっている。その要因のひとつとして、そこに少なからず時間を拘束されてしまう、という要素を意識するようになったことが挙げられる。つまり、それだけ私が大人になり、虚構の世界よりも現実の世界のほうを重要視するようになった、ということでもある。そうした意識の変化が、はたしてひとりの人間として良いことなのかどうかはわからない。ただ、そんな私でも映画館で映画を観るときにかぎって、集中力を維持することができるのは、それだけ映画館という空間が、観客を現実世界から切り離し、映画の世界に没入させる装置として優れているからに他ならない。

 映画にかぎらず、小説や漫画などで描かれている物語は、言ってしまえば作り話にすぎない。生物として生きていくのに何の役にも立たない虚構の世界――だが、にもかかわらず人が小説や映画に惹かれてしまうのは、そのなかに人が人としてありつづけるための何か大切なものがあるからではないか、とふと考える。それは、たとえば人が何気ない風景のなかに美しさを見出してしまうのと、同じような心の作用なのではないか、と。

 そう、クソみたいな現実が押しつける結末を、物語の力でいともたやすく変えてやるのだ。物語の中では、死者は当然のように蘇り、まるで死んだことさえなかったように動きまわれることはおろか、空を羽ばたくことさえできるのだ。

(『太陽がいっぱい』より)

 本書『映画篇』のページを繰ると、まず飛び込んでくるのは、とある上映会のポスターである。頭にティアラを乗せて微笑むオードリー・ヘップバーンが描かれている、という表現だけで、即座にそのポスターが映画「ローマの休日」の上映会であるとわかった方は、本書をすでに読んだことがあるか、過去の名作映画にかんしてかなり詳しい方、もしくはオードリー・ヘップバーンのファンではないかと愚考するのだが、全部で五つの短編を収めた連作短編集である本書において、この上映会はそれぞれの短編の登場人物たちを結びつける具体的な場であるだけでなく、まさに『映画篇』というタイトルにふさわしい、ひとつの象徴として機能していることを、まずは語っておく必要がある。そういう意味で、本書の短編は独立した作品ではあるが、それぞれが深く結びつくことで、はじめて『映画篇』というひとつの物語として完成すると言うことができる。

 収録された短編には、それぞれ映画のタイトルがつけられており、そのなかで展開していく物語もまた、その映画と深い関係をもっている。たとえば『太陽がいっぱい』という映画は、才気溢れる主人公が悪友のフィリップを殺害し、彼になりすまして財産を手に入れようと計画するという内容であるが、最後に主人公は警察に捕まってしまう。同タイトルをつけられた短編において、一人称の語り手である「僕」は、デビュー作の映画化も決まっているという前途有望な小説家であるが、読みすすめていくにつれて、彼にとってその映画のストーリーは、彼の幼少の頃からの親友であり、今は消息がわからなくなっている龍一の人生と呼応するものであることがわかってくる。勧善懲悪のアクション映画のように、シンプルに虚構の世界を楽しむことができた子ども時代――だが、ふたりにとっての現実は両親のことをはじめとして多くの問題をかかえており、けっして幸福だったわけではなかった。

 お互いに映画によってその親交を深め合ってきたふたりだが、成長するにつれて、ふたりは別々の道を歩み始める。小説家という夢を追いつづける語り手とは裏腹に、龍一の人生には次第に暗い陰が刺すようになる。それはまぎれもない現実ではあるが、大切なときに親友としての龍一の力になれなかった語り手にとって、それは「クソみたいな現実」でしかない。ここで、最後に警察に捕まってしまう『太陽がいっぱい』のストーリーと、龍一の人生が結びつくことになる。そして、そんな現実の世界に対して、語り手は物語の力で対抗しようと決意する。

 私たちが生きている現実世界はとかく厳しく、ときに理不尽で不条理な仕打ちで人々を打ちのめし、物語世界のように、かならずしもハッピーエンドを迎えることができるわけではない。それぞれ映画のタイトルを冠した本書の短編は、虚構の世界――具体的には映画がもたらしてくれる物語が、はたして現実世界と立ち向かうためのどんな力を示してくれるのか、という一点において、共通したテーマをもっている。そしてそれらのテーマを含んだ短編は、いずれも力強い物語の力で読者の心を鼓舞していく。

『ドラゴン怒りの鉄拳』のなかで、ブルース・リーの放つ怪鳥音に後押しされるように、夫の自殺という悲しい現実と正面から向き合い、戦う覚悟を決めた未亡人、『トゥルー・ロマンス』のようにある女の子が計画した現金強奪に手を貸し、『恋のためらい フランキーとジョニー』のように彼女のそばにいることを決意した赤木、『ペイルライダー』のように、敢然と悪人と立ち向かい、粉砕していく女性ライダー ――いずれの登場人物たちも、それぞれつらい過去や深刻な問題をかかえながらも、映画によって勇気づけられ、あるいは心を奮い立たせていく様子が感動的であるが、それにも増して本書が見事なのは、それぞれの物語が、本書全体を貫いてその背景にあるひとつの事件について、成すべき役割を与えられ、奇しくもその役割をきちんと果たしていくことで、まるで映画における登場人物が、それぞれの役割をはたすかのようにその事件にしかるべき結末をもたらしていく、という展開である。そしてそのとき、読者ははじめて本書のタイトルである『映画篇』という、ひとつの物語の形を見出すことになるのだ。

 そして物語は、本書の最後に収められた『愛の泉』へと引き継がれていく。本書冒頭にあった上映会のエピソードを語るその短編は、まさに映画という虚構が、現実を凌駕して圧倒的なハッピーと大きな喜びへと変わっていく様子を描いていく。それは、もしその短編単独だけで見たときには、都合のいい話のように思ってしまうようなものかもしれない。現実はそんなに甘いものではない、と。だが、それまでの四つの短編がまざまざと見せつけて来た虚構の力は、そんな私たちの斜に構えた態度など軽く吹き飛ばしてしまうのに充分なものだ。まるで映画館まで足をのばし、しかるべき環境で映画を観るときのように、きっとその物語を純粋に楽しむことができるようになっているに違いない。そしてそれこそが、まさに本書のもっとも大きなテーマでもある。

 映画好きな人が本書を楽しめるのはもちろんであるが、私はむしろ、映画とは無縁の生活を送っている人にこそ本書を読んでほしいと思う。そこに出てくる数々の映画について、きっとどれか「観てみたい」と思わせるタイトルが出てくることを私は確信しているし、そんな確信をいだかせるだけるものが、本書にはたしかにあると断言する。物語がもつそんな力を、ぜひとも感じとってほしい。(2008.02.16)

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