【文藝春秋】
『悼む人』

天童荒太著 
第140回直木賞受賞作 



 殺人現場や死亡事故のあった場所ばかりを訪ね歩く男がいる。彼は事件や事故の関係者というわけではなく、新聞記事などで知った情報をもとに、そこで死んだ人を悼むためだけに国内を旅して回っているという。宗教や信仰とかいったものとも関係がない。死者の冥福を祈っているわけでもない。事件そのものや、その犯人の心境や、そこで本当は何が起こったのかといった事柄には関心を寄せず、ただそこで死んだ人がどのような人だったのかを聞き、死んだ人のことを忘れないように悼むのだという。今回紹介する本書『悼む人』はそんな奇妙な男の――後に「悼む人」と呼ばれるようになる坂築静人の物語であり、そんな彼の行動が物語の中心となっている。

「でしたら、彼女のことをお聞かせ願えませんか。彼女は、誰に愛されていたでしょうか。誰を愛していたでしょう。どんなことをして、人に感謝されたことがあったでしょうか」

 いったい、彼は何者で、なんのために見知らぬ死者の過去を知りたがり、悼むのか。ときに付近の人たちから不審者として通報され、ときに被害者の遺族の神経を逆撫でさせながらも、自身はけっして感情を表に出すようなこともなく、問われれば淡々と自身の「悼み」の行為を説明し、まるで何かにとり憑かれているかのように死者のことばかり考えている坂築静人という人物を、本書は三つの視点を追うことで浮き彫りにしようと試みている。ひとりはフリーの特派記者である蒔野抗太郎。残忍な殺人や男女の愛憎がらみの事件を中心に、人間の醜さや虚飾をことさら強調し、煽情をあおるような記事を得意とする男で、北海道警察の知り合いにネタを求めていたさいに彼の存在を知り、興味を示すようになる。

 ひとりは「悼む人」の母親である坂築巡子。彼女は末期がんの診断を受け、長く治療をつづけてきたものの、いよいよ自身の死が間近に迫っていることを悟ってからは、その整理のために在宅ホスピスという選択肢をとる決意をする。何年も死者を悼むために家を出たまま戻ってこない静人の過去を振り返りつつ、自分が生きているあいだに戻ってきてくれることを望んでいるが、そうした感傷は娘の美汐が妊娠しているという事実、そして恋人である高久保が彼女との結婚に難色をしめしていること、そしてその原因が、他ならぬ静人にあるということを知り、身辺は急に慌しい雰囲気につつまれる。

 最後のひとりは奈義倖世という女性で、たまたま死んだ彼女の夫を悼んでいる静人と出会うことになるのだが、彼の「悼み」の話を聞いた倖世は激しい拒否反応を示す。じつは彼女の夫である朔也を殺したのは、他ならぬ倖世自身であり、さらに彼が多くの人を助けることに尽力し、「仏の生まれ変わり」とまで呼ばれた人格者であったこと、しかしその心のうちでは世の中のあらゆるもの、とくに自分のくだらないプライドに嫌気がさしており、自分を殺してくれる人を望んでいたという倒錯した思いをかかえていた。

 本書のなかで、その存在自体がひとつの謎ともいえる「悼む人」――彼が何を考え、どのような思いをもって見知らぬ死者を訪ね歩くようなことをつづけているのかを、この場で簡潔に説明するのは難しいし、だからこそこの物語が書かれたといっても過言ではないのだが、重要なのはその謎を解き明かすこと、より詳しく言うなら、私たちにとって理解しがたい「悼む」という彼の行為に対して、何らかの言葉をあてはめて無理やり納得しようと努めることではなく、むしろ彼の行為――けっして興味本位や特殊な性癖といったものではない、やむにやまれぬ衝動として死者を悼まずにはいられない彼の言動を通じて、その周囲にいる人たちがどのような影響を受け、それまでもっていた考え方にどんな変化をもたらすにいたったか、という点にこそある。

 じっさいに本書を読んでいくとわかってくるのだが、彼の旅はけっして安穏としたものではなく、少ない金をなんとかやりくりしながら野宿を何日もつづけるといったハードなもので、にもかかわらず、上述のようにその行為はしばしば人々から悪し様にとらえられ、いらぬ誤解を生むことが多い。なぜなら、死者を訪ね歩くという彼の行動は、そのまま「死」を象徴することとつながっており、死の本質を生者である私たちが究極的に理解できないのと同様に、理解できない彼の存在は、人々の心をかき乱し、苛立たせる存在でもあるからだ。

 人はいずれかならず死を迎える。そして身近な者の死は、そうした死の本質の一部を垣間見せ、人々に恐怖をもたらすものでもある。だが同時に、彼の存在によってこれまで忘れていたはずの死者のことを思い出し、彼らをたんなる数値や記号ではなく、自分たちと同じように生きた人間としてとらえなおしていることに気づく人たちもいる。

 蒔野は記事の材料として死に群がるような生活をしており、巡子は自身が死の淵にある。そして倖世はかつて、夫をその手にかけて殺している。静人をとりまく視点の持ち主は、それぞれが死と隣り合うような生き方をしているという点で共通するものをもっている。そして、死者をけっしてランクづけしたりすることなく、すべて平等に、生前の良いことを記憶のよすがにして「悼む」彼の姿勢に、あらためて自身のなかにある「死」の概念と対峙することを迫られることになる。

 本書にはじつに多くの死が出てくる。それこそ、悲惨で可哀想な死もあれば、まるでギャグとしか思えないような間抜けな死もある。だが、どの死が悲惨で、どの死が滑稽なのかを、私たちはどうして決めることができるのか、という疑問を、「悼む人」の行動は突きつけてくる。八月六日に広島に原爆が落とされ、多くの人が死んだことは誰もが知っているのに、同じ日に空襲で死んだある町の人のことは、誰にも注目されないままに、ただ忘れ去られていく。本当にそれでいいのか、それで許されるのか――本書の凄いところは、そうした「死」に対する疑問を驚くほど真摯に受けとめ、考えてきたのだというたしかな手ごたえがあり、それが「悼む人」坂築静人という、下手をすればこのうえなく胡散臭くなるキャラクターを、このうえなくリアルな人物として描ききっていることにある。

 おまえを<悼む人>にしたものは、この世界にあふれる、死者を忘れ去っていくことへの罪悪感だ。愛する者の死が、差別されたり、忘れられたりすることへの怒りだ。そして、いつかは自分もどうでもいい死者として扱われてしまうのかという恐れだ。

 死んだ人間は何も感じないし、何も考えない。かりに、死後の世界があり、死んだあとも意識というものが残るとしても、彼らが何を感じ、何を考えているのかを知るすべは、生きてこの世界にいる私たちにはない。死がこの世界からの消滅であり、この世界へのあらゆる干渉も、自身の未来へのあらゆる可能性も、すべてを閉ざされることであるとするなら、死者について、あるいは死そのものについて、何を考え、どう感じるのかは、けっきょくのところ生きている人間の問題ということになる。私たちがともすると目をそむけ、まるで存在しないかのように扱う「死」を、私たち生きている人間の逃れられない問題として、真摯に対峙する「悼む人」坂築静人の言動は、はたしてあなたの心に何を残すことになるのだろうか。(2009.04.29)

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