【文藝春秋】
『森のはずれで』

小野正嗣著 



 私たちが幼い頃に、絵本などで接することになる童話やおとぎ話といったものは、たいていの場合固有名詞がついていなかったりする。日本の昔話でもっともなじみのあるフレーズは「むかしむかし、あるところに」という出だしであるし、出てくる登場人物はたんに「おじいさん」や「おばあさん」と呼ばれるにすぎず、具体的にどのような名前をもっていたのかについては、ほとんどあきらかにされていない。それは、時代も場所も、そして登場人物でさえも特定しない架空の物語であるということの強調であり、現実世界のリアルという束縛をとりはずすための、一種の装置だということもできる。それゆえに、童話や昔話のなかでは相当に突拍子もないことが起こったり、どこか規格外の登場人物が出てきたりするし、私たちもそれがおとぎ話にすぎないという意識ゆえに、無条件にそれらの設定を受け入れてしまう。

 本書『森のはずれで』は、四つの作品を収めた連作短編集という位置づけにあるものだが、そこに登場する人たちにも、固有の名前がつけられていない。一人称の語り手が一貫して「僕」であることはさほど珍しくもないが、彼の妻は一貫して「妻」という呼び方しかされないし、またふたりのあいだに生まれた息子もまた「息子」以外の名称が存在しない。もちろん、現実の世界において、名称がないなどということはありえない。ただ、彼らをリアルな現実の登場人物としてつなぎとめるための固有名詞が、注意深く隠されていると言っていい。同じようなことが、その背景にある時代や場所についてもあてはまる。いつの時代なのか、そこが日本なのかどうかすら、本書のなかでははっきりとしていない。ただひとつだけわかるのは、「国境」や「言葉の違い」といった単語から、私たちのよく知る日本の話ではない、ということだけである。

 私たちには、日本人の作家の描く作品が、おそらく著者自身もなじみ深いであろうと想像する日本を――あるいはそれによく似た世界を、物語の舞台として選択するに違いない、という先入観があるし、同じく日本人の一読者である私もまた、物語世界を想像する基礎として、やはり日本での習慣や日常をあてはめずにはいられない。とくに、物語の背景としてあらかじめ断り書きがされていないような場合はなおさらだ。おとぎ話で言うところの「むかしむかし、あるところに」という前提が、本書にはない。にもかかわらず、その舞台となる世界は、どうも私たちのよく知る日本ではなさそうだ、という雰囲気だけは伝わってくる。

 上述した「国境」「言葉の違い」という要素は、当然のことながら多くの国が国境を接する大陸部を彷彿とさせるものがあるし、森のなかにあるという「城」は、必然的に西欧的なものを想像させる。そういう意味で、本書はワールドワイドな視点から、より普遍的な物語を描こうとしているところがあると言うことができるのだが、そうして出来上がった物語内の世界は、メルヘンチックというよりはどこか不気味さを漂わせるものとして、読者を翻弄していくことになる。

 広大で力強い闇は僕たちを目覚めさせる。分け入ることのできない闇だからこそ、僕たちはその奥へと入っていきたくなるというのだ。闇は僕たちが自分では気がつかない欲望を揺さぶり、かき立てる。

(『片乳』より)

 語り手の「僕」は、息子と二人きりで森のはずれに建てられた家で暮らしている。妻は二人目の出産のために実家に帰っており、家にはいない。妻が不在の状態で、息子と二人きりで生活するという状況は、言わばイレギュラーな出来事であって、すべてが無事に済めば妻は家に戻ってくるし、そうすれば以前と同じような生活が始まるはずだと、語り手も息子も思い込んでいる。じっさい、本書のなかで妻の存在は常に語り手の共有する思い出のなかに登場するし、妻と電話ごしに会話するというシーンも幾度か書かれている。だが、本書を読み進めていくうちに、語り手の妻が本当に彼らの家に戻ってくるのか――いや、そもそも彼の妻などという人物が、本当に存在していたのかさえ、このうえなく危うい状況に読者は陥ってしまう。

 具体的に語り手の妻の身に何が起こった、ということは、本書内にはいっさい書かれていない。妻はあくまで妊娠のために実家にいる、ということになっている。ただ、息子とふたりで暮らすようになってから、不思議なことや奇妙な出来事が身のまわりで起こるようになっている、と「僕」は語る。たとえば、森の奥から咳払いのような音が響いてくる、というようなことから始まって、息子が見知らぬ老婆を家に連れてきたり、息子がまだ胎児だった頃の、妻が体験したことをまるで自分が見てきたかのように語り出したり、家畜どころか、小さな子どもまでも攫うと言われる小鬼と出くわしたり、どこかから出現した難民の列と遭遇したり――固有名詞をもたない、おとぎ話のようでいてそのための前提をふまえることのない本書の世界は、ショッピングセンターで買い物をするといった、ときにひどく現実的な事柄を書きながら、いっぽうで何かのイメージをそのまま日本語で表現したかのような描写が入り混じっており、現実と虚構の境目がこのうえなくあいまいな展開が続いていく。そしてこのあいまいさは、そのまま彼らが語って聞かせるさまざまな事柄へと広がっていく。

 たとえば、語り手たちが借りている家の持ち主である農夫が、森に住むという小鬼の話をするシーンがあるのだが、小鬼の存在自体はひどく非現実的であるにもかかわらず、彼らはそうした存在をひどく現実的な出来事と結びつけて認識しているようなところがあり、かつていた農夫の兄や弟が、小鬼に攫われたのだという「おとぎ話」を、なかば信じてしまっている。同時に農夫は、兄が抵抗運動の組織に入ったあげく、密告されて殺されたことや、弟がけっきょくは死産だったことも告白しているのだが、本書の世界にはまり込んでいる私たち読者に、これらふたつの話の優劣をつけることはできなくなっている。なぜなら、どちらも農夫が直接その目でたしかめたことではなく、どこからか流れてきた風評や、伝聞でしかないからだ。事の真相がわからない以上、どれだけ突拍子もないことを信じていたとしても、いかにももっともらしい想像を信じていたとしても、そこに何の違いがあるだろうか。

 でも息子は僕のことなど見もせず、小さな体には不釣合いなほどがらんとした視線をあたりに漂わせているだけだった。――(中略)――小さな損失をどんなに足し合わせても匹敵することのない大きな損失をすでに経験してしまったからなのか。息子がそれを損失として理解しているかどうか疑わしかったけれど。

(『眠る瘤』より)

 息子とふたり暮らしを続ける「僕」が、しばしば息子と突拍子もない作り話をして遊んだという一節が本書には出てくるが、その作り話がはたしてどのような「損失」を補うために語られたものなのか、ということを思わずにはいられない。いつか二人目を出産して戻ってくるはずの母親を息子は待ち続け、読者もまたそのことをそのまま受け入れて読み進めていくが、いつまで経っても母親は戻ってくることはなく、息子は「僕」の作り話に失望する。いつしか「母親がいつか戻ってくる」という、あたりまえのように確定された未来が作り話と化し、「僕」の妻はずっと妊娠中のまま、変化することがない。それは、ある意味もっとも怖いおとぎ話と言えるのかもしれない。(2010.03.25)

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