【河出書房新社】
『月の裏まで走っていけた』

雨森零著 

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 誰でも小さい頃は夢を持っていた。それがどんなに途方もなく大きな夢であっても、かなえられると信じて疑わなかった時期が、確かにあったはずなのだ。青春という、歯が浮くような、しかし誰もが持っていたはずの蜜月の時間。
 だが、いつの頃からか、人は夢を諦める。ありふれた会社のサラリーマンになり、当たり前のように結婚し、ごく平凡な家庭を築いていく。それが悪いとはけっして思わない。だが、子供の頃からの夢を諦めることなく、追いつづけていける人は、いったいどのくらいいるのだろう。そして、実際にそれを実現できる人は、その中でもどれだけの割合なのだろう――本書『月の裏まで走っていけた』を読むと、ふとそんな思いにとらわれる。

 本書に登場するQとRにとっては、アメリカへ渡って気ままな放浪生活を続けていた五年間が青春の蜜月であった。QとRはまったくといっていいほど正反対の性格でありながら、まるでお互いの欠点を補っていくかのようにウマがあっていた。互いに切磋琢磨するようなことはなかったが、二人には、画家になるという共通の夢があった。そして、お互いに、自分が相手のことをもっとも理解していると信じているという点で、彼らは親友だったのだ。本書は、Rが自分の異母兄弟である禅一郎にあてた書簡の内容と、そして奇妙な場所でRを探しつづけるQの現状を交互に映しながら進んでいく。なぜ、QとRが別れなければならなかったのか、そして、QはなぜRを探しているのか、という疑問に答えるために。

 かつて自分の夢をかなえるためにがむしゃらになって努力したことのある人、もしくは今もなお努力しつづけている人にとっては、なんとも言えない哀しさを感じさせる作品である。哀しいが、しかし美しい。そう思うのは、自分のなかにかつてはあった、そして今もあるかもしれない、QやRが持っていた純粋さの名残を見出すからだ。
 純粋であるがゆえに何でもできた、まさに「月の裏まで走っていけた」時代――それは永遠に変わらないと信じてきたにもかかわらず、いつか、どこかで、その時代は終わりを告げてしまう。それは、QとRの性格を考えたとき、当然起こるべくして起こったことであると言える。

『セザンヌって林檎一つ描くのにも、種を蒔いて水をやって育つのを見てから描いたんだってな』
 僕はその話を今でも事実だと信じることができない。Qは、いつまでもそれを信じているだろう。本当のところは誰にもわからない。ただそれを信じるか、信じないか、そこに人間のもつ何かが集約されていると思う。(中略)その狂的なまでの思い込み、ひとつのことに熱中しつづけて進むエネルギー、そういうものは僕という人間には、ない。

 私は思う。Rは画家になりたかった。それは事実だろう。だが、Qと出会い、Qと行動を共にすることで、しだいにその目標が画家ではなくQに移ってしまったのではないだろうか、と。そして自分はQのようにはなれないと激烈なまでに理解したとき、Rは画家としての夢も捨てることになる。とするなら、人のことなど顧みず、ただ自分の目標に向かって突っ走っていく強さを持つQが、最終的にはRの才能を潰してしまったことになる。

 では、Rにとって、Qとの出会いは不幸だったのか? 答えはNOだろう。ただひたすら突っ走ることができるQ――だが、よく考えれみれば、Qは立ち止まって周囲に何があるかを眺めることはないのだ。どちらがより幸せなのか、といった問いは、おそらく無意味だ。見方によってはどちらも幸福だし、それと同じくらいどちらも不幸だ。

 分相応、ということばがある。人は成長するにつれて、自分がどんな人間なのかが徐々にわかってくる。それに応じて、ある人は夢を捨て、ある人はその夢に向かって突き進む。夢を持ちつづけていくことは、大事なのだろう。だが、それだけが大事なのか、と本書は問いかける。RがけっしてQにはなれないように、分不相応な夢を持ちつづけることが、必ずしも幸福だとは限らないのだ。

 かつて、同じ道をひた走っていたQとR。彼らはけっきょく、ずいぶん回り道をすることになったが、その過程はけっして無駄ではない。それこそが、かつて自分の夢をかなえるためにがむしゃらになって努力したことのある人、もしくは今もなお努力しつづけている人にとっての唯一の、そして最大の救いとなる。そんな本書に、私は最大限の賛辞を呈したい。(1999.03.07)

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