【新潮社】
『月と六ペンス』

サマセット・モーム著/金原瑞人訳 

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 自分は何のために生まれたのか、あるいはこの世界で何を成すべきなのか、という命題がふと頭をよぎることがある。それは、自意識というやっかいなものを抱えこんでしまった私たちが、どうにかして自分の人生を意義あるものとするための目的を見つけたいという願望から生じるものであるが、そうした理想というものは、かならずしもはっきりとした形をもったものとして現われてくるものではなく、またそこに到る筋道も明確なわけではない。いったい、何をどうすれば自分にとっての「理想」を叶えることができるのか、いや、そもそも自分にとっての「理想」とは何なのか、私たちは常に迷いながら生きているようなものだ。

 もっとも私たちの人生はともすると、日々の生活で忙しく、そうした抽象的な事柄に意識を割くような暇がない場合が大半であり、あるいはそうした生活のなかでささやかな幸せを感じとることで満足する人もいるだろうし、あるいは大金を手に入れるとか、会社などの組織でのし上がっていくとかいう、今の人間社会が喚起する欲望にうまく適応し、迷いなく邁進する人もいるだろう。仮に、今の自分の生き方に疑問があったとしても、日々のくり返しである日常は、いつしか人々の漠然とした――そしてそれゆえに移ろいやすい「理想」を容易に曇らせてしまう。

 人間社会が私たちにとりあえず与える「役割」が、そのまま自分にとっての「理想」と直結していれば、あるいはそのことに疑問をいだかなければいいのだが、そうでない場合に、私たちはしばしば冒頭の疑問に立ち返ってしまうことになる。今回紹介する本書『月と六ペンス』は、ある意味でそうした命題を悩みぬいたあげく、幻のように掴みどころのない「理想」への強烈な欲望に囚われてしまった天才の物語だと言える。

 わたしはストリックランドをみつめた。彼はじっと目の前に立ち、からかうような笑みを浮かべている。にもかかわらずわたしは、苦悩して燃える彼の魂を、かいまみたような気がした。その魂は、なにかを希求している。それも肉体とは別次元のところにあるなにかを。言葉にできないものへの憧れが、一瞬みえたような気がした。

 この作品の中心人物として登場するチャールズ・ストリックランドは、死後にその作品が高く評価され、ついには天才と呼ばれるまでになった画家である。一人称の語り手である「わたし」は、まだ駆け出しの作家だった頃に生前の彼と会ったことがあり、物語はその時点からはじまる。そのときのストリックランドは、ロンドンで暮らす証券取引所の仲買人であり、妻も子どももいるごく平凡な中年男性にすぎなかった。むしろ彼の妻のほうが、作家のパトロンとして交流を求めていたという意味で、語り手と接点があったくらいである。

 ところがその後、平凡な生涯を終えるであろうと思っていたストリックランドが、家族やそれまでの地位をすべて捨ててパリへ出奔してしまったという話が飛び込んでくる。以前から故意にしていた夫人から、自分の代わりにストリックランドを探し出し、戻ってくるよう説得してほしいと頼まれた語り手は、なかば作家としての好奇心からその依頼を受けてパリに向かったが、そこで語り手が目にしたのは、世間が噂しているような愛人との逢瀬を楽しむ姿ではなく、絵を描くことに異様なまでの情熱を燃やす男の、なんともとらえどころのない世のなかへの無頓着さであった。

 四十歳にして画家となるため――より正確には絵を描くために、それまで築いてきたあらゆるものを捨ててしまったストリックランドが話の中心にいるのは間違いないのだが、本書はあくまで作家である語り手の視点を徹底しているところがあり、単純に彼の伝記という形式にあてはめるのは早計だ。もしそうであれば、本書はストリックランドの生涯を書かなければならないはずなのだが、語り手本人も認めているように、ストリックランドの幼少の頃などには言及せず、彼の突然の出奔を物語の出だしとしている。それだけ、語り手にとってその出来事は印象深いものであったことがうかがえるが、同時にその出来事こそが、本書のメインテーマであるとも言うことができる。

 そう、曲がりなりにも社会的に成功をおさめているように見えたストリックランドを、それまで何の接点もなかったはずの絵を描くという行為へと突き動かすことになった、その原動力はいったい何なのか――本書は同じく芸術を担おうとしている語り手の視点を通じて、その謎に迫ろうとするためにこそ書かれたものだと私は考える。なぜならそれは、語り手自身にも、さらには本書の著者にとっても、けっして無関係なものではないからだ。

 絵をみて、彼という人間への驚きは増すばかりだったのだ。わたしは、それまで以上に途方に暮れた。唯一確信が持てたのは――これさえも憶測に過ぎないのだろうが――ストリックランドが、自分を捕らえようとする力から自由になろうともがいていたことだ。だが、その正体も、自由になるとはどういうことなのかも、依然としてはっきりしなかった。

 ストリックランドの画家としての評価は、彼の死後に得られたものであって、生きているあいだは何の名声もなかった無名の画家にすぎない。じっさい、本書のなかでもそのように書かれているのだが、重要なのは、彼が絵を描くことを決意した理由である。語り手の視点からとらえられた人間としてのストリックランドの大きな特徴は、およそ世間のあらゆるものに対する無頓着さという点だ。彼にとって富や名声といったものは、考えることすら無意味なものにすぎず、その無頓着さは、そのうち自分自身のことにまで及んでいく。すなわち食べたり、寝たり、あるいは性欲を発散したりといった、人間の体が求めずにはいられない根源的な欲求すら、ともすると疎ましいものと考えているふしがあるのだ。

 くり返しになるが、本書のテーマはストリックランドを画家へと突き動かしたものの正体である。それは少なくとも富や名声、あるいはささやかな幸福といった現世的なものではなかった。彼の死後の評価は、彼が画家としてはまぎれもなく天才であったことを物語るものであるが、だからこそ、その正体を表現することは、芸術というもの、美というものを表現することにつながる。芸術家としての才能――それは、ふつうに考えれば誰もがうらやむはずのものである。だがそうした考えは、私たちが「才能」というものを、カネや栄誉といったわかりやすい価値観に置き換えた結果でしかない。

 自分の描く絵が世間でどのように評価されているのかにいっさい興味がなく、またその絵を売って儲けることにも頓着しないばかりか、むしろ一枚も売らないようにさえしていたストリックランドのストイックさは、まるで社会のありようを憎み、それを破壊しようとしているかのようである。じっさい、彼は自分の家庭を壊しているし、またそれ以外の家庭にも決定的な破壊をもたらしてしまっている。まぎれもない画家としての才能の持ち主であったストリックランドの人生は、幸福というにはあまりに程遠いものであることが、本書を読むと伝わってくる。そして私たちは、芸術というものが、美というものが、そしてそれを表現せずにいられない「才能」という名の衝動が、これほどまでに凄まじいものであることに、ある意味戦慄せずにはいられない。同時に、このうえないカタルシスをも感じずにはいられないものも、そこにはたしかにあるのだ。

 究極の美、真の理想――そういったものは、ある意味でけっして手に届かない、空に浮かぶ月のようなものである。私たちの大半は、その届かない理想を夢みながらも、そのことをなかば忘れたまま、きわめて現世的な欲望にまみれて、それでなんらかの安寧を見いだして生きていく。だが、なかにはそうした現状にどうしようもない違和感をおぼえ、それをどうにかしようともがき、あがいていく人たちもいる。そしてときにその姿は、私たちの「常識」としての社会通念からはかけ離れたものであり、自分もまわりも不幸にしていくようにさえ見えてしまう。ひとりの人間としては、このうえなく他者との協調性にとぼしい、むしろ相手を意図して傷つけようとしているかのように見える、ろくでなしのストリックランドの生きざまに、はたしてあなたはどのような魂の叫びを見いだすことになるのだろうか。(2015.04.10)

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