【朝日新聞社】
『モンティニーの狼男爵』

佐藤亜紀著 



「お前は人間か?」と問われれば、おそらくほとんどの人がイエスと答えることだろう。私自身もまた、人間として生まれ、人間として育てられ、その結果として今の自分が存在するのだと信じているのだが、時として、自分が人間である、という認識がひどく邪魔に思えるようなこともある。おそよ人間であれば誰しもが持ちあわせているはずのプライドや自制心や理性といったもの――もちろん、そういったものが備わっていなければ、人間の文明は、欲望が支配する混沌の闇に呑み込まれてしまうのだが、それら文明の産物が、常に人間の感情の上位に占めているわけではない。自分の感情のおもむくまま、理性やプライドに縛られることも、何かに深く悩み苦しむこともないまま、それこそ一匹の獣として生きることができれば……そんな想いを抱いたことのある人は、けっして私ひとりだけではないはずだ。

 本書『モンティニーの狼男爵』で、自らの人生に起こった出来事を語る、ラウール・ド・モンティニー男爵の生涯は、結局のところ幸福だったと言うべきなのだろう。幼少の頃から人見知りの激しい性格で、夜中にひとりで森の中を散歩したりする性癖をもっていた男爵は、とくに強い野心を持っていたわけでも、また何かに対する激しい情熱を抱いていたわけでもなく、あくまでも今あるもので満足してしまうような、その時代の田舎貴族にはよくあるタイプの人間だった。ゆえに、明らかに金銭目的である、叔父が持ち込んできた縁談――ドニーズとの結婚に嫌悪感を覚えはしたものの、反対する理由はどこにもなかったと言うことができる。

 だが、この不愉快な結婚で奥方様となるドニーズに、男爵が少なからぬ愛情を持ちはじめたとき、物語は少しずつ奇妙な方向へと流れていくことになる。それまで、自分がつまらない人間であることの釈明じみた独白がだらだらと続く本書が面白くなってくるのも、この辺りからである。

 鋭い読者であれば、あるいは本書のタイトルを見ただけで、ある程度の想像はつくのかもしれないが、本書はいわゆる「変身譚」である。狼への変身――しかし男爵は古典ホラーのように、満月を見て怪物に変身するわけでも、また、狂犬病のたぐいに犯されるわけでもない。ある日を境にして、正真正銘の狼――しかも人間のときと同じように物事を考えることができる賢い狼として、付近の住民に悪さをはたらいたりするのだ。

 一般に、変身譚では、変身してしまった本人が、驚きのあまり恐慌をきたしたり、混乱してわけのわからない行動をとってしまったりすることは少ない。自分の置かれた立場を意外なほど冷静に受けとめ、人間でいるときとほとんど変わらない――場合によっては妙にのんびりとさえした思考を有したまま、日々を過ごしてしまう。そのギャップこそ変身譚の面白さのひとつであるのだが、本書における変身の背後に隠されているものは、人間が人間であるがゆえに背負わなければならなかった、理性と本能による二律背反、心のせめぎ合いなのである。

 本書には、ギョーム・ルナルダンという伊達男が登場する。彼は、男爵から奥方様の愛を奪い取り、さらには彼女によってもたらされる富を手に入れようとあれこれ画策する、いわば男爵の敵役なのだが、ルナルダンがこれみよがしにドニーズとの交際を深め、ドニーズのほうもまたまんざらではない様子であるのを見るにつけ、男爵の心は千々に乱れ、激しい嫉妬で気も狂わんばかりになる。そう、かつて妻の愛人を生きたまま壁に塗り込め、妻を寝室に閉じ込めてしまった伝説のダゴベールのように、怒りに身を任せて行動できたら、どれだけ楽になるだろう――だが、男爵の心にある、文明人たらんとする理性が、どうしても邪魔をする。男爵にとって、狼に変身することは、追いつめられた男爵の心が見出した負の感情の捌け口であり、心おきなく本能のおもむくままに行動することができる最善の方法だったのである。その証拠に、狼となったときの男爵の心を占めているのは、深い満足感なのである。

 わたしは鏡の前で、新しい衣裳を誂えた時に厚かましい仕立屋がやってみせろと言うようにぐるりとまわり、裏側が真っ白に見える尾を一振りして、深い満足を覚えました。生まれた時からわたしはまさにこんな風だったのだ、と思ったほどです。――(中略)――長い生涯で己が姿に微かなりとも自惚れ心を抱いたのは、この時が最初で最後でしょう。

 男はみんな狼なのよ――そんな歌詞の歌を昔だれかが唄っていたように思うが、そもそも生きるために家畜などを襲う狼と、自分の欲望を満たすために銃や猟犬で追いまわしたり、罠をしかけたりする人間と、どちらがより残酷であると言えるだろうか。そして、すべての真実を知ったドニーズが最終的にどのような決断をするのか、本書を読んでぜひ確かめてほしい。(1999.12.22)

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