【集英社】
『げつようびのこども』

広谷京子著 

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 それまで正しいこと、あたり前だと思ってきたことが、じつはあたり前でもなんでもなかった、ということ――既存の価値観が次々とくつがえされていくのが、今私たちが生きる現代という時代であることは、もはやあらためて言うまでもないことだと思うが、それでも、学校崩壊、家庭内暴力や離婚率の増加、中高年のリストラ、不倫やシングルマザーの問題、さらにはセックスレスや同性愛者、性同一障害といった問題を聞くたびに、今やそれほど珍しくもない事件だと冷静に分析している自分がいる一方で、万が一、自分がそれらの問題に巻き込まれたらどうなるのだろうと不安を感じ、以前にくらべて世の中に対して違和感をいだいている自分にも気づく。この違和感は、私がまぎれもない男であり、これまでの常識だった男中心の社会――男は一家の主となるのがあたり前、男は男らしく、女は女らしく、といった、男にとって都合のいい社会そのものが崩壊しようとしていることに対する違和感なのではないか、とふと考えることがある。そしてそのたびに、自分が既存の価値観にすっかりとらわれており、柔軟な考えができなくなっていることに気づかされることになるのだ。

 なぜ、月曜日になったら子どもは学校へ、大人は会社へ行かなければならないのだろうか。なぜ、女がはたらくことに対して、男は非難のまなざしを向けるのか。なぜ血がつながっているという、ただそれだけの理由で、家族という枠のなかに組み込まれらければならないのか。なぜ、妻をもつ男の子どもが欲しいと思ってはいけないのか――本書『げつようびのこども』で著者がやろうとしていたのは、まさにそれまでの社会が巧妙に用意してきた、さまざまな「枠」を打ち壊してみる、という試みだったのではないかと思う。

 本書は表題作のほか、「クラインブルー」という作品を収めた本である。「クラインブルー」に登場する圭という女性は、現在テレビ情報誌を発行している出版社に勤めるキャリアウーマンであるが、二年前から「ジャパン・TV」の特集番組担当になった縁で、ドラマのディレクターをやっていた高森亮と出会う機会を得る。彼の作ったドラマ『鏡の中の少女』というドラマに、自分の少女時代――けっして幸せな家庭で育ったとは言えない少女時代を重ねていた圭は、ある日、高森の子どもを産ませてほしい、と提案する。

「すでに彼女とは寝た。コンドームをつけないで射精した」というセリフからはじまる、男と、女と、男の妻という代名詞で語られる冒頭は、あるいは読者にとってはひどく違和感のある場面ではないかと思われるのだが、それは、その三人の組み合わせが、普通なら修羅場を引き起こしてしかるべき設定であるにもかかわらず、男の妻である沢志織が激怒するどころか、圭の高森の子どもを産みたいというその提案に積極的ですらある、ということから起因されるものである。子育てをしながら絵を描いて生活している沢志織は、芸術家肌と言うべきか、およそ世間一般の常識では測ることのできない、ちょっと変わった性格の持ち主で、だからこそ圭の計画に対しても寛容であると言えなくもないのだが、そのスタイルが、実は、芸術家たらんとする自負ゆえの、心の中の抑圧をごまかすためのものであることが後に明らかになるにつれて、彼女こそがもっとも常識的な感覚の持ち主――ある意味もっとも世俗にとらわれた考えを持っていた、という事実に読者は気づくことになる。

 幼い頃に目撃した母の不倫現場がトラウマになって、結婚し、子供をたくさん育てて暮らすことに関して嫌悪感を抱く圭、そして人を傷つけることへの快感から解放されるための手段として、圭の提案をあっさりと受け入れた高森――彼等の価値観は、あきらかに既存の社会が「正しいもの」として押しつける価値観とは異なるものであり、むしろそのような価値観に対して挑戦的ですらあると言える。そして、それをよりはっきりとした形で表現したのが「げつようびのこども」である。この作品では、それまで何の問題もなかったように思えたある家庭で突然おこった登校拒否に焦点をあてている。この作品で登場するいずみもまたキャリアウーマンであり、仕事と子育てを両立させてきたという自負があったにもかかわらず、娘の美歩が学校に行かなくなり、それどころか急に乱暴な言葉遣いになって暴力を振るったり、かと思うと甘えてきたりと、いずみも、夫の耕介も振りまわされることになるのだが、そのうちに美歩の姿に自分の少女時代――母から強い女になることを要求され、甘えることを許されなかった少女時代を思い起こしたいずみは、美歩が、両親から無言のうちに要求されてきた「良い子」でいること、そして何より耕介が他人に自慢したくなるような「理想の家族」の一員となることを放棄しようとしていることに気がつくことになる。

「クラインブルー」のなかで、圭は愛情のない両親と過ごさなければならなかった少女時代を振り返って、次のように語っている。

「――だから私にとって、家族の枠なんて価値がないの。守らなくちゃならないものもない。枠の中と外を自由に移動できたらいいと思ってた。愛情さえあれば、なんでもできるものだと思ってた」

 人間は基本的に孤独な生き物であり、それぞれがそれぞれにふさわしい世界を持ち、それぞれにとっての真実の世界のなかに生きているはずである。だが、現実を振り返ってみれば、ほんとうに個人の世界を尊重して生きることがいかに難しいか、あらためて思い知らされることになる。どれだけ個性や自由という言葉を振りかざそうと、本心は誰もが同じ方向を向き、同じ価値観を共有することを望む社会のなかで、「げつようびのこども」のいずみは、個性うんぬんよりとにかく問題を起こさないような、大人達に従順な生徒であることを望む学校との裂け目、仕事も子育ても完璧にこなすことができる「理想の女」を押しつけてくる母との裂け目、そして、愛情よりも「理想の家族」を演じることを要求してくる耕介との裂け目を感じることになる。

 いずみの母や耕介は、社会にとっては成功した人間だと言うことができるだろう。だが、知らないうちに既存の社会の要求どおり、社会が押しつけてくる価値観に迎合し、それが自分自身の価値観だと思い込むことによって、逆に自分自身を見失ってしまったいずみの母や耕介たちは、ある意味で犠牲者であるとも言えよう。そして、それまでずっと「良い子」であることを演じつづけてきた美歩が、何より自分自身のために、社会が要求する「良い子」をやめたように、いずみもまた、自分自身を見つめなおすことになる。

 本書のあとがきのなかで、著者は「ところで、私は幸せなのか」と自問している。それまで自分が育ってきた家庭に対して文句なく"満足"していると書いている著者は、その"満足"という感情に対して疑問を投げかけようとしている。世の中を問題なく渡り歩いていくことが、自分自身にとって本当に幸せなのか――私たちはあらためて、心の中で自問自答する時期に来ているのかもしれない(2000.07.31)

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