【集英社】
『海を見たことがなかった少年』

ル・クレジオ著/豊崎光一・佐藤領時訳 



 かつて自分が子供だったころ、世界はどのように映っていたのだろうか、とふと思うことがある。
 たとえば、小さい頃は夏になると必ずといっていいほど連れていってもらった海――確実に強くなってくる潮の香りを感じながら、防砂林の松林を抜け、ハマヒルガオの丘を越えると不意に目の前に広がってくる果てのない海は、私にとっては多くの宝を秘めた場所だった。焼けつくような砂浜を飛ぶように走り抜け、海の中でさんざん泳いだりふざけたりしたあと、私はよく海岸に打ち上げられた、角がとれて丸くなったガラス石を好んで拾ったものだが、それはまるで、自然にあるさまざまなものの色――たとえば、海の色や、空の色、太陽の光の色といったものを封じ込めた、何か不思議な力をたたえたもののように思っていたからかもしれない。そしてそうした発想は、私の心で今もなお色褪せない、かつての私の目がとらえた海という世界では、いかにもふさわしいものだった。

 波間できらきらと陽光が戯れる海には、光そのものを凝縮する力があるに違いない、という子供ならではの発想は、ときに常識や理屈に凝り固まった大人たちにはけっして手に届かない、光溢れる世界を子供たちが理屈抜きで感じとり、現実のものとしてその目に見ている証拠ではないか――本書『海を見たことがなかった少年』を読んで、私はあらためて思わずにはいられない。子供たちは本来、光溢れる世界の住人なのだ、と。

 じっさい、本書に収録されている8つの短編集は、いずれも子供たちを主人公とした、子供たちの目から見た世界を描いた物語であるが、彼等の視点は大人たちにはとらえることのできない、どこかずっと遠い世界の領域を見つめているように思える。もっとも典型的なのは『水ぐるま』のジュバで、彼は牛たちが回す水汲み車の規則正しい運動と、用水堀の水路を流れていく水の音の中に、いつしか幻の白い都市「ヨル」の姿を垣間見ることになる。そこには現実と幻の区別など存在しない。むしろジュバにとっては、日々の仕事に追われる世界も、まるで白昼夢のように彼を王として迎える「ヨル」の世界も、同じようにひとつの現実としてとらえているのがわかるはずだ。
 同じように『空の民』のプティト・クロワは、光や雲をまるで生き物のようにその身に感じ取り、動物や小さな虫たちの言葉に耳を傾ける。彼女にとってそうした行為は、呼吸するのと同じくらいごく自然なことに過ぎないのだが、そこに書かれている濃密な自然の世界―― 一方では無限の高みを目指して飛翔するかと思えば、次の瞬間には地面を這う一匹の虫へと凝縮していく、制約のまったくない彼らの自由自在な心のありように、どこか人間というにはあまりにもかけ離れた、神秘的なものを感じてしまうに違いない。

 雨森零の『首飾り』は、山奥の小さな村落で育った、たった三人の子供たちの美しい世界を描いた物語であるが、その中で、三人が「太陽の音」を聞こうと岩に耳を押しあてるという場面がある。子供たちの突拍子もない行動は、子供ならではのものであるが、あるいは、大人になってしまった人々にはけっして見ることのできないものを目にし、聞くことのできないものを耳にしているだけなのかもしれない、と思ったとき、子供というのはある意味で、「子供」という名の生き物なのだ、と思ったことを思い出す。子供たちの非人間性――それは、たとえばウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』のように、無秩序で、それゆえに残酷でさえある側面ではなく、人間でありながら人間という限界をあっさりと飛び越えてしまう側面が、本書には強く表われている。

 どこからともなく街にやってきて、住む家を持たず、学校にも行かず、ただ自然に、あるがままに日々を生きていく少年『モンド』は、日本で言うところの座敷童子のような性格をもっているし、『海を見たことがなかった少年』で、海を目指したダニエルの失踪は、大人たちにはまったくその原因がわからないがゆえに「神隠し」として扱われ、現実世界に取り残された子供たちにとっての伝説と化す。そう、「光溢れる世界の住人」たる子供たち――光のようにまっすぐ進み、あらゆるものを明るく照らし出し、けっしてなにものにもつかまえることのできない彼等は、ある意味ではすでにこの世のものではなくなっているのかもしれない。

 子供というのはもともと社会的規律や一般常識、世間体といった大人たちの、人間としての論理からかけ離れた存在だ。それがたんに無知ゆえのこと、と言ってしまえばそれだけかもしれないが、文字の読み書きすらできないモンドが、それゆえにアルファベットの組み合わせから自由な想像の翼を羽ばたかせるのと、『リュラビー』のように、一度身につけてしまった知識ゆえに、最終的にはより大きなものとシンクロする光の世界から、ふたたび人間としての世界へと引き戻されてしまうのを考えたとき、子供たちにとって、いったいどちらが彼等にとっての幸せなのだろうか、とふと思わずにはいられなくなる。

 そもそも、昨日とか明日とか、今が何時何分とかいった時間の概念そのものが、人間が社会的生活を送るために、自ら生み出した制約のひとつである。あらゆるものから自由になる、というのは、そうした概念の外側に立つということであり、だからこそ『牧童たち』が住むジェンナでは、まるで同じ日が永遠につづくかのようにガスパールには感じられたわけであるが、そういう意味で、子供たちは「永遠」のなかに生きているといってもいいだろう。だが、誰もがその「永遠」を維持できるわけではない。私たちの誰もが、かつては子供であったのと同じように、短編集のなかの何人かは、ふたたび元の世界へと舞い戻ってくるのだ。

 彼等はおそらく、何事もなかったかのように日々を過ごし、そして知らないうちに大人の仲間入りをはたしていることだろう。そして長い間、自分がかつて「光溢れる世界の住人」であったことすら忘れて生きていくのだろう。だが、ふとしたきっかけが、大人たちに過去を思い起こさせるのだ――私が本書を読んで、かつて海岸で光を封じ込めた石を集めていた子供のころを思い出したかのように。あなたにとって、本書がそうしたきっかけになってくれれば幸いである。(2002.01.15)

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