【岩波書店】
『モンテ・クリスト伯』

アレクサンドル・デュマ著/山内義雄訳 



 ときどき海外のニュースなどで、とんでもなく高額の宝くじを引き当てたという話題が出ることがあるが、かりにそんな幸運が自身の頭上に輝いたとして、はたしてあなたは、その幸運をどんなふうにとらえるだろうか。

 日本のジャンボ宝くじにしても、一等である二億円を引き当てる確率というのはとんでもなく低いものであることを知っているが、であるからこそ、その幸運はたんなるラッキーとか偶然とかいったものではなく、何か深い意味があるのではないか、と人は考えるものだ。逆に言うなら、とんでもない幸運というものは、それだけで人を不安に陥れるものであり、そこに何らかの意味づけをしないことには心を落ち着かせることができない、ということでもある。そしてそういった心理は、幸運だけでなく不運についても同じことが言える。とんでもない不幸は人の心を容易に打ち砕いてしまうものであるが、そこに意味を――たとえ、それがどれだけ不自然で脈絡のないものであったとしても――見出すことで、人はかろうじてその不幸を受け入れるだけの強さを得ることができる。

 幸運にしろ不運にしろ、それがあまりに大きいものであるとき、誰もが一個の人間としてその重みに耐えられるほど強いわけではない。本書『モンテ・クリスト伯』は、ある男の復讐を描いた作品であるが、全七巻という壮大なスケールの本書を読み終えたときに、私がまず思ったのは、はたしてエドモン・ダンテスを復讐に突き動かしていたのは、本当に個人的な怨みや憎しみといった感情だけだったのだろうか、という点である。

 一介の船乗りだったエドモン・ダンテスは、その船の持ち主であるモレル氏の信任厚く、航海中に亡くなった船長の代わりに、二十歳という若さで新たな船長としての身分を約束されていた。故郷のマルセイユには、彼を心より慕う恋人メルセデスがいて、今度の航海が終われば婚約することになっていた。時は一八一五年の二月、フランスの皇帝として君臨していたナポレオン・ボナパルトはエルバ島に追放されたものの、国内にはいまだ彼に組する勢力がひそかに力を蓄え、その影響力が完全に消え去っていない危険な状態のなか、幸福の絶頂にいたダンテスは、彼を嫌うごく少数の者たちによるちょっとした陰謀によって、危険な国家反逆者として捕えられ、地下牢に幽閉されてしまう。

 本来ならありえない、あってはならないこうした不幸は、何人かの人物の思惑や野心が絡み合った結果としておこったものであり、ダンテスはいわばそれらの者たちの踏み台として貶められ、社会的に葬り去られたということになる。同じ地下牢で出会うことになるファリア司祭の助力によって、自身の身におきた事の真相を見抜いたダンテスは、博識な彼からさまざまな知識を教わりつつ、ひそかに脱獄する機会を待っていた。

 はたして、絶望的とも言える状況のなかから、ダンテスはどのようにして光明を見出すことになるのか。そして、のちに「モンテ・クリスト伯」という名でパリ社交界の話題を席巻する彼が、どのようにしてその復讐をはたしていくのか。14年という長きにおよぶ地下牢生活と、その後手にすることになる莫大な財宝を糧に、まったくの別人として返り咲くという数奇極まりない人生、まさに天国と地獄をともに体験することになったダンテスが、そこに人間の意思以上の何かを感じることがあったとしても、なんら不思議ではない。本書はたしかにダンテスという個人の復讐を描いた物語であるが、たんに個人的な怨みや憎しみをはらす、という気持ちだけでは、今回の壮大な復讐劇をなしとげることはもちろん、思いつくことさえもできなかったに違いない、という確信がある。

 むろん、彼の舐めた苦汁は恐るべきものであり、読者としても彼におおいに肩入れし、なんとしても復讐をはたしてほしいという気持ちにさせるのに充分なものがあるのだが、それ以上に重要なのは、彼が自身の復讐について、けっして彼個人の感情に流されるのではなく、あくまでそれが「神の意思」であるという立場を貫こうとしている点である。つまり、善良な人間は、たとえその過程が苦難に満ち、多くの犠牲が払われたものであるとしても、最終的には幸福になるべきであるし、悪しき心をもち、人を陥れて自分だけが成りあがろうとする人間は、いずれしかるべき罰を受けるべきであるという考えが、ダンテスの行動の根幹にあり、それが彼を突き動かしているということである。

「だまれ。わたしは、お前のような猛獣を取って押さえるため、神さまから力をさずかっているのだ。わたしは、神さまの御名によっておこなっているのだ。忘れるなよ、人非人。いまお前を助けてやるのも、神さまの思召にそうためなのだ」

 自身を神の摂理の代理人としたうえで、しかるべき復讐をはたす――じじつ、ダンテスはその過程において何度か自分の復讐を相手への「罰」と呼んでいるが、ともするとこのうえなく傲慢な態度のように思われるダンテスの考えは、ある意味で自分が人間であることを捨てるということを意味する。その気になりさえすれば、ダンテスは手に入れた莫大な財宝をひたすら自分の快楽のために使うこともできたはずなのだ。だが、彼はけっしてそうはしない。人間であるがゆえのあらゆる弱さは、エドモン・ダンテスという名とともに死んだという決意のもと、モンテ・クリスト伯という存在しない名前、人間としては存在しない者として、正義の鉄槌をくだすためにのみその財産を用い、自身の意思を貫こうとする。

 モンテ・クリスト伯となって後の物語の展開のなかで、彼自身の心情は巧妙に隠されている。そんな彼が何を知り、公に、あるいは秘密裏にどのような行動をとり、どのような策略をめぐらせていくかが、本書中盤の読みどころであり、いっけん何の関係もなさそうな行為が復讐のための伏線となって、後に大きな意味をもつようになるという展開は、それこそミステリーの謎解きにも匹敵するものであるが、あくまでその心情を語らない彼の行為は、いかにも神の摂理の代理人としてふさわしい態度となって読者を魅了することになる。罪人の公開処刑を顔色ひとつ変えずに眺め、化学や言語学、医学の知識にもすぐれ、社会や法を敵にまわすことさえも意に介さないようなモンテ・クリスト伯――そこには、彼の鋼鉄のような意思の力がたしかにあり、たんなる復讐という個人的な感情を超越しているようなところさえ感じられる。だが、あくまで個人としての幸福を考えたときに、はたして、ダンテスはそのままで幸福なのか、という疑問が残ることになる。

 復讐は何も生み出さない、という言葉がある。だが復讐は、それでも自己満足くらいは与えてくれる。となれば、ダンテスという人間であることを捨てたモンテ・クリスト伯の復讐には、その自己満足すら与えられない、ということになる。神の摂理の代理人という立場を貫こうとするなら、人としての感情などあってはならないはずのモンテ・クリスト伯――だが、私たちは彼がまぎれもないエドモン・ダンテスであり、彼もまたひとりの人間であるという事実を知っている。彼が復讐者として、相手にエドモン・ダンテスと名乗るとき、そこに人としての感情がほとばしるのを、読者はまのあたりにすることになる。そしてそのとき、本書はたんなる復讐の物語ではなく、また悪人は滅びるという教訓の物語でもなく、このうえない人間の物語であるということを知ることになる。

 どこまでも冷徹に、神の罰をあたえるための準備をととのえ、平然と復讐をとげていくいっぽう、人間としての幸福や苦悩といった感情をどうしても捨てきることのできないでいるエドモン・ダンテスの復讐は、たしかに人の心を残したままでは成し遂げられないものでもある。じっさい、彼を陥れた者たちは、結婚して地位と名誉を手にしたが、年月は彼らに配偶者をあたえ、息子や娘をもうけさせるにまでいたっている。そして、その子どもたちや配偶者自身に罪があるというわけではない。だがダンテスの復讐は、そうした人たちをも巻き込まずにはいられないものでもある。彼らが悪人であればまだいい。だが、彼の復讐の対象には、今はメルセデスの夫となっているフェルナンも含まれているのだ。ダンテスがその幸福を願わずにはいられないメルセデスや、その息子であり高貴な心をもつアルベールを前に、はたして彼の復讐はどのような形をとり、そして彼にどのような決意をさせるのか。それもまた、本書の多くの読みどころのひとつであり、本書が深い人間ドラマでもあるということを物語るものでもある。

 繰り返しになるが、本書は復讐の物語である。それは、復讐をはたすために人としての幸せを放棄し、悪しき者たちを粉砕する苛烈な心を描いた物語であるが、それ以上に、人としての幸福と不幸の形を考えさせられる物語でもある。不幸によってもたらされるもの、あるいは幸福によってもたらされるもの――それがどのようなものであったとしても、なにより生きるということが第一にあってこそのものであるし、それがなければ何もはじまらない。本書の最後にあるメッセージは、何よりそのことを雄弁に物語っている。ぜひ大きな希望をもって本書を読んでもらいたい。(2009.05.19)

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