【みすず書房】
『黙読の山』

荒川洋治著 



 本書『黙読の山』の著者荒川洋治は、福井県出身の現代詩作家。じつは私の出身地は隣の石川県なのだが、北陸三県と呼ばれる三つの県のうち、「福井」や「富山」の名称にくらべ、「石川」という名称は、関東方面の人たちにとって今ひとつなじみがないというか、印象の薄いものであるようだ。むしろ「金沢」という名称のほうがメジャーらしく、自分の出身地を語るときは、「石川県」と言うよりも「金沢のある県」と言ったほうが理解が早かったりするのだから、出身者としては複雑な気持ちなのだが、これと似たような誤解のひとつに、「北陸出身者は寒さに強い」というイメージがどうもあるようだ。ちなみに、私は寒いのが苦手である。他の石川県民だって、寒いものは寒いと言うに決まっている。にもかかわらず、寒さは平気みたいな印象を勝手にもたれてしまうというのはじつに困ったものだが、本書のなかに以下のような文章を見つけたときは、「さすが北陸出身者、わかっていらっしゃる」と溜飲が下がる思いがした。

 北国の人は、自分とこの自然のきびしさを、意外に知らないものだ。雪が降れば、すばやく家のなかに入って避難する。たいへんな寒がりなのである。だから、ちょっと家から外に出るだけで、自然におののき、震えあがる。それが北国の人の真実である。

 本書は著者が2005年から2007年前半くらいまでに、いくつかの雑誌に書いたショートエッセイ58編を収めたもので、おもに文学作品のことについて書いたもの、現代詩について書いたもの、本や読書などについて書いたもの、と大きくわけることはできるが、この三つのテーマのなかに、厳密な区別があるわけではない。文学のなかには当然現代詩というジャンルがふくまれているし、そうした文学作品が載っているのは書籍や雑誌という形あるもので、もちろん、それらを読む人がいる。大きく三つにわかれてはいるが、それらのエッセイはゆるやかな繋がりをもっている。そして著者が書く文章は、えてして詩的な印象を読者に残す。

 たとえば、表題作にもなっている「黙読の山」。いっけんすると、「黙読」と「山」のあいだにどのような因果関係があるのかが見えてこない。「積読の山」であれば、意味は容易にわかるのだが、「黙読の山」と書かれると、とたんに謎の言葉と化す。そこには未知との遭遇があり、緊張がある。なんとも気になってしまう。じっさい読んでいくと、それは他ならぬ「山」という漢字がつく山の名称において、「山」を「やま」と呼ぶか「さん」と呼ぶかがわからなくて困る、というような内容だったりする。逆に言えば、「黙読の山」というごく短いタイトルのなかに、そのエッセイの内容すべてが込められている、ということだ。詩人ってスゴイ、と素直に感服してしまう。

 小説や詩の紹介をするときも、ところどころにそうした詩的な表現が入ってくる。

 これが世界の文学なのだ、と思った。個人は明白だが世界は見えない。そのなかを人は強烈な光を発しながら通りぬける。ヘンリー・ジェイムズのすばらしい文章は結局そのことを伝えるためにつづいた。ああ、すごい。

 ひとつひとつのエッセイはごく短い。それゆえに、本の紹介をするときも余計な言葉は極力はぶかれているところがある。冒頭から本のタイトルや、作家の名前が来る。この点、無駄に枕が長い私の書評などとは雲泥の差があるわけだが、そんな引き締まった文章のなかに、思わず漏れ出したかのように詩的な表現がはさまれると、その部分に強烈な印象がともなうことになる。ディーノ・ブッツァーティの『神を見た犬』、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』、ラッタウット・ラープチャルーンサップの『観光』――どれもとても面白そうで、いつか読んでみなければと興奮させられる。そこには、本を紹介する人たちにとっての、ひとつの理想形がある。

 本書を読んでいくとわかってくることであるが、著者はこと「文学」というものに強いこだわりをもつ方でもある。本書は21世紀に書かれたエッセイであるにもかかわらず、まるで昭和時代の作品集のなかに混じっていたとしても、ほとんど違和感のないような雰囲気をもつのだが、それは著者のなかにある文学像というものがしっかりと確立されているからに他ならない。それは、言ってみれば多様性の容認と、それを受け止める個への視点、ということになるだろうか。著者は知識のない事柄にかんしては素直に「知識がない」と書くし、読んだことのない本にかんしては「読んだことがない」とはっきり書いてしまう。逆に言えば、単純に多くの作品を読むことだけがすべてでない、ということでもある。著者にかかると、古い雑誌に掲載された文芸時評の、今はもう読むことのできない作品に対しても愛着をもってしまうし、ある作品のなかに出てくる地名をめぐって旅に出てみたい、という思いも生まれてくる。けっして読書という枠の中だけにとどまらないし、自分の読書体験だけにこだわることもない。いろいろなものを多様性として受け止めつつも、それらにけっして流されることのない、しっかりとした芯がある感じ――そうした本書の印象が、書かれた文章に対する普遍性を獲得していくのだろう、と強く思う。

 私もよく空いた時間に短いエッセイを読んだりすることがある。そのさいに、とくに興味のない知識にかんして書かれたエッセイに出会ったりすることもあるのだが、重要なのは、そうした方面の知識に興味のない人たちであっても、ある程度惹きつけるだけの文章をいかに書くか、という点に尽きるのだが、本書は一気に読んでしまうのが惜しいと思われるくらいの、良質なエッセイ集だと断言できる。(2008.01.05)

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