【暮しの手帖社】
『アラバマ物語』

ハーパー・リー著/菊池重三郎訳 



 この世の中には、じつにさまざまな人たちがいる。同じ人間というカテゴリーのなかにくくられる存在でありながら、その外見はもちろんのこと、生まれた環境やそれまで歩んできた歴史を含めた個人の考え方にいたっては、それこそ人の数だけあると言っていいだろう。そして、人と人とがコミュニケーションすることは、そうした個人の持つ価値観が衝突することでもある。

 私たちはときに、相手のことがまったく理解できない、と思うことがある。その大部分は、たんに自分が相手のことを理解しようとしていないだけであることが多いのだが、基本的に、人は自分のことしか理解できないものであることを、否定することはできない。下手をすれば、自分自身のことだってよくわからないのだ、ましてや他人のことなどわかるわけもない、と。
 実際、私がぜんそく持ちの方の苦しみや、心臓の病に犯された方の不安、アレルギー体質の方の痛みが理解できるのか、と問われれば、理解できない、と答える以外にない。私はぜんそく持ちではなく、心臓の病に犯されているわけでもなく、何らかのアレルギーがあるわけでもないからだ。だが、それでもなお、その苦しみを想像することはできる。想像する力――それは唯一、私たち人間に与えられた力であり、私たちがもう少しだけその想像力を広げることができれば、世の中はきっと今よりうまくいくはずだと信じることができる力だ。

 本書『アラバマ物語』を読み終えて、私があらためて感じたのは、そういった他人を思いやるための想像力のことである。それは、誰だって殴られれば痛いし、踏みつけられれば悔しいと思うことを自覚することであると同時に、殴れば殴った拳も痛いし、踏みつければ踏みつけた足の感触が心地よいわけではない、ということを知ることでもある。

 アメリカ南部アラバマ州にある、メイコーム郡――とりたてて何か目立ったものがあるわけでも、特色ある産業を抱えているわけでもないものの、住民の誰もが親戚のような関係で、のんびりとした時間の流れる、古くて小さな町を舞台にして、ジェムとスカウトの兄妹がどのように成長していくかを、スカウトの一人称で綴った本書は、『若草物語』や『トム・ソーヤの冒険』に代表されるような成長物語のひとつではあるが、それ以上に、彼らの父であり、メイコームの弁護士でもあるアティカスを通じて、人間が持たずにはいられない偏見や差別に焦点をあて、人間として本当に大切なのは何なのか、と問いかける物語でもある。

 偏見や差別、ということについて、私たちはいったいどれほどのことを知っているだろうか。たとえば、本書ではアティカスが、トム・ロビンソンという黒人の弁護人として法廷に立つことになる。黒人にかけられた、白人女性への婦女暴行がでっちあげであることは、彼のからだを見れば明らかなことなのだが、それでもメイコームの白人たちは、ごく当然のように黒人が悪いと決めつけており、そんな黒人の弁護をするアティカスをはじめ、ジェムやスカウトにまであからさまな非難の目を向ける。そして、そんな様子を見ている私たちは、黒人たちに「ニグロ」というラベルを貼りつけることは間違っている、それは差別であることを強く意識することになるだろう。アメリカ社会ではこうした人種差別が、今もなお深刻な問題のひとつであることを、私たちはすでに学んでいるからだ。

 だが、そうした差別を、私たちは自分の身の回りのこととしてどれだけ意識しているかといえば、たとえば『君は小人プロレスを見たか』といった本を読めばわかるが、およそお粗末なものだと言わなければならない。偏見や差別のもっとも恐いところは、その当事者たちが無知であるがゆえに、偏見や差別をしていることを意識することがない点であり、ましてやメイコームでは、家柄がその人物のすべてを物語ってしまうような土地である(だからこそアレクサンドラおばさんは、あれほど家柄というものにこだわったのだ)。そうした非難を受けてなお、ひとりの弁護士として、黒人の無実を証明してみせるために全力を注ごうとするアティカスの姿は、その黒人を訴えたボブ・ユーイルに代表されるような、無学で粗暴な人間の対極に位置するという意味で、理性と無知との戦いを象徴するものである。そして言うまでもないことだが、その間には善も悪もない。ただひとつ、人間としての「良心」の問題があるだけなのだ。

「おまえも、ジェムもつらいだろう。しかしね、人間はどんなにつらくても全力をつくしてやらなければならないことがあるんだよ――(中略)――トム・ロビンソンの事件はね、人間の良心の問題なのだ――スカウト、彼をたすけなければ、私はもう教会へいって神さまのまえに出られないんだ」

 もちろん、そのような理屈をこねなくとも、アティカスの態度が真の紳士にふさわしいものであり、だからこそカッコいいということを否定する者はひとりもいないだろう。そして幼いジェムとスカウトが、はじめこそこの年老いた、何も人に自慢できるような特技も持っていないように思っていた父に、少しずつ人間としての尊敬を抱くようになっていくのを見るにつけ、私たちはアティカスのような父親をもったふたりを羨ましいとさえ思うに違いない。アラバマ州特有の風習や自然、文化といったものにとりかこまれ、良くも悪くもいろいろな体験をしながら成長していくジェムとスカウト――そんな兄妹の成長の鍵を握る重要な人物として、父親のほかにもうひとり、謎の隣人ブー・ラッドリーのことを忘れてはならない。

 このブー・ラッドリーという人物、じつはもう何十年も家の中にひきこもったまま暮らしており、それゆえに彼に関する不気味な噂だけがメイコームのあちこちで一人歩きしているという人物である。ジェムもスカウトも、当初は狂人として噂される彼の存在を恐れたり、またからかいの種にしたりしているが、その真実を知らないという点で、当初のふたりは無知であった。無知から既知への成長――幼い頃はわけもなく恐かった暗闇が、その正体を知る分別をつけることで恐れなくなるように、噂が必ずしも真実であるとは限らないことを知るようになったジェムが、本書の最大のヤマ場である裁判が終わってから語った言葉は、非常に印象的である。

 みんなおなじなら、どうしてばらばらになって、おたがいがさげすみあうんだろうね。ね、スカウト、ぼくはわかりかけてきたようにおもうんだ。なぜブー・ラッドリーが、ずっと家にとじこもっているのか、わかりはじめたようにおもうよ。……それはね、ブーのほうで、家の中でジッとしていたいからなんだ。

 他人とのかかわりをいっさい拒否して生きてきたブー・ラッドリー ――ジェムとスカウトの成長は、人間はあくまで個人であり、「黒人だから」「白人だから」といった枠に安易にあてはめて安心してしまうことこそが最大の偏見であり差別であると知ることであり、そうした偏見から自由になったとき、はじめて「ブー」が「アーサー」となってその姿をあらわす、という本書の構造は、まさに芸術的だと言っていいだろう。そして、本書はフィンチ家の兄妹の成長物語であり、親子の愛情の物語であると同時に、ブー・ラッドリーの救いと癒しの物語でもあるのだ。

 私たちは、はたして自分以外の人間がすべて、自分と同じ個々の人間であることを、どれだけ自覚しているだろうか。いつのまにか、安易なカテゴリーに他人を押しこんで、それで安心しきって生きていないだろうか。(2001.02.22)

ホームへ