【集英社】
『水に似た感情』

中島らも著 



 物語とは何なのか――それは、私が高校生くらいの頃から、漠然とではあるがずっと考えつづけてきた、大きなテーマのひとつである。物語は、私たちの住む世界のいたる所に存在する。たとえば、音楽の中に、たとえば、一枚の絵の中に、たとえば、日々の労働の中に、たとえば、普段の何気ない会話の中に。あるいは、私たちは物語に囲まれて生きていると言ってもいいかもしれない。
 私はそんな数多くの物語の形の中から、小説という、言葉のみですべてを構築する表現形式に惹かれ、その後を追いかけてきた。最近ではホームページを立ち上げ、自分が読んだ本に書評まがいの文章を加え、それを次々とネット上に掲載していった。それなりに、いろいろなジャンルの本を読みこんだつもりだ。そして最近、そのリストを眺めながら、ふたたび物語の本質――物語とは何なのか、ということを考えはじめている自分に気づいた。それは、もろやんさんのホームページで、フィクションとノンフィクションの違いについての考察を読んだことに影響されたからであろうか。あるいは、私のホームページの掲示板で、思いがけず雨女さんが児童書と呼ばれるものの区分けについての書きこみをしたことに触発されたからであろうか。いや、むしろ私が、心のどこかで物語について考えていたからこそ、それに関係するような話題や情報が引き寄せられたのだ、と言うべきなのかもしれない。そう、本書『水に似た感情』のなかでモンクが体験した"物品引き寄せ現象"のように。

 本書に登場する文九三郎(通称モンク)は、ほぼ間違いなく著者の中島らもその人である。そういう意味で、本書は著者がバリ島に行ったときに体験した一連の出来事を書きつづった、ノンフィクションであると言ってもいいだろう。最初はソト杉丘というミュージシャンとともに、テレビ番組の収録の仕事として訪れ、二度目はほぼ完全なプライベートとして訪れることになるバリ島――その街並、自然、文化、音楽、宗教観、食生活など、さまざまな角度からバリ島の魅了を紹介している点などは、一種のガイド本のような印象を受けるし、物語の途中でモンクが急遽「地獄のミーティング」なるものを開き、今回の番組制作およびそのスタッフ構成など、不審な点を探偵よろしく次々と明らかにしていく場面などは、まるでミステリーを読んでいるかのような気にさせられる。また、ジュゴクという竹の木琴を使った音楽を聴いたときに感じた清廉な水のイメージや、テジャ老師が披露し、モンクが「本物だ」と感じた占いや不思議な儀式、一度日本に戻ったモンクが躁状態の中で体験した"物品引き寄せ現象"などは、ちょっとしたオカルト小説のようでさえある。悪く言えば、本書は小説の形さえ成していない、エッセイまがいの散文ということになるのだろうが、逆に言えば、フィクションとかノンフィクションとかいった枠を完全に無視し、さまざまな物語の要素を盛り込んだ、ひとつの世界観を構築するのに成功した作品とも言えるのではないだろうか。そう、黄金色の宮と黒の宮との中間、黄土色の沙漠や緑色の森林、茶色の都心、そしてそこで営まれる人々の生活を支える火の赤などが、渾然一体となって配置されている人間世界そのもののように。

 物乞いの人々とプールで泳ぐオーストラリア人。美しいライステラス。灰と米と花々。塩。血。花々の上昇および下降。原始的アニミズムと数秘学。三と六と九。神経の糸たちが壊れたマリオネットのようにおれに下手な踊りを躍らせる。アルコールとのろ臭い酔い。ハシシュ。月の満ち欠け。塩辛い予言。水底の寺。蝿のたかった神々――(中略)――まあ、そんなところだ

 バリ島のことを訊かれたモンクは、このような単語と文をえんえんと羅列することでそれに答えているのだが、そこにあるのは、解き放たれた場所、一種のファンタジーとも言えるイメージだ。聖と俗、光と闇、科学と伝統とがいっしょくたになった世界は、ある意味あらゆるものを受け入れ、その本来の姿を解き放つ力に満ちている。だからこそ、それまで鬱状態だったモンクは、バリ島の雰囲気に触れて、躁状態に移行していった。鬱が内側に閉じこもる方向であるなら、躁はすべてを外側に解放する方向であり、日本の都心などでは、自己を解き放つよりも、自己を自分の内側に隠すほうが生きるためには都合がいいのに対し、バリ島などでは、むしろ自己を解放するほうがより自然である、ということなのだろう。そういえば、本書のなかにも「六はすべを包み込む罪の数字、九はすべてを解放する数字である」とあるではないか。

 本書の「あとがきにかえて」において、著者は「人はなぜ言葉を使ってしかわかりあえないのか」「人はなぜ「個」に分断されているのか」と書いている。たしかに、本書のなかにあるのは、まったく着飾ることなく目の前に放り出された人間の営みそのものであり、そこに描かれている人々は、モンク自身にしろソト杉丘にしろ、孤島のように孤立した存在である。だが、モンクが「地獄のミーティング」を開いてから、番組製作のスタッフたちが徐々にそれぞれの役割を認識し、ひとつの目的に向かって足並みを揃えつつある様子は、「個」に分断された人間たちが、じつはその底でつながっているということを示す、ひとつの例示のようにも思える。そして、躁と鬱によってふたつの人格に分裂してしたモンクもまた、バリ島に足を運ぶことによって、その底でのつながりを感じ、ひとつの人格を、本当の自分自身を取り戻していくことになる。それは、そこに住む人たちに内に閉じこもることを求める日本の都心では、けっして感じ取ることのできないつながり――人間の種のレベル、あるいは生き物のレベルにおける、壮大なつながりであり、一体感でもある。

 私たちは、けっして孤独ではないのだ――本書が伝えたいのは、そういうことではないだろうか、と思う。たとえ、それが児童書であろうと、ノンフィクションであろうと、そしてまっとうな小説であろうと、そこに物語が流れているという事実は変わらない、というのと同じように。だからこそ、本書はなによりも、バリ島の魅力について語りつづけているのだろう。解放された島、バリ――そこで自分を解き放つことの素晴らしさを一人でも多くの人に伝えるために。(2000.09.13)

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