【文藝春秋】
『見よ 月が後を追う』

丸山健二著 

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 おそらく、オートバイを運転したことのある人であればわかると思うが、外から眺めるぶんには、四輪自動車などと同じ乗り物の一種であり、あくまでガソリンと微小の電気で動く機械にすぎないにもかかわらず、いったんオートバイの乗り手となり、風をきって走りはじめたとたん、オートバイはたんなる機械であることを超越し、独自の意志を秘め、自分と一心同体となって駆ける生き物となる。私がかつてライダーだった三年間、オートバイにとって、ぐうたらな私はけっして良き乗り手であるとは言えなかったものの、それでも身震いするようなエンジンの振動を全身で感じ、うなり声にも似た排気音を聞き、ともするとそのパワーに振りまわされそうになるほどのエネルギーを制御しながら、前進するという方向へと導くことに成功したとき、私とオートバイは、たしかにひとつの目的を共有する想いでつながっていたように感じる。それは、エアコンで季節感を封印し、よほどのことがない限り転倒する心配のない、ガラスと鉄板に守られた便利な四輪では感じられない、奇妙な親密感である。

 本書『見よ 月が後を追う』で語り手となっているのは、一台のオートバイである。それもただのオートバイではない。最初の乗り手――特攻崩れの男の自殺に立ち会い、ニ番目の乗り手――正義漢を気取った地方紙の新聞記者が背負った絶望とともに、崖下へと転落していったにもかかわらず、何者かの手によって見事に復活をはたした、すでに半世紀を過ぎてなお、何物にも縛られない自由を望み、権力に対する反骨精神を有する、魂の宿ったオートバイである。「動く者」たる力を内に秘め、「動く者」たりえることを望みながらも、乗り手の資質に恵まれることのなかったオートバイは、しかし三番目の乗り手である青年――原子力発電所の建設にともなう人口流出ですっかり活気を失ったある町で、寝たきりの祖父と暮らしながら、漁に出ることで生計をたてているその青年の、どんな事態に陥っても泰然自若としていられるその態度の奥に、「動く者」となる可能性を見いだし、青年とともに、見捨てられたこの小さな世界から飛び出すことを願っている。

 義務教育という名を借りた小さな管理社会での競争に明け暮れる子供たち、集団に属する安心感を与えることで反発する精神を根絶やしにされた、家畜に等しい大人たち、社会の示す規格に自らを押し込めることになるにもかかわらず、愛や幸福などの名前で飾りたてられた家庭という小世界に縛りつけられてしまった人々――そういった、大衆を統制しようとする権力に屈せず、常に秩序を脅かす存在の象徴のひとつとして、オートバイという語り手を登場させたのは、今という瞬間を熱く生きることに命をかけている著者ならではと言っていいだろう。奇しくも『千日の瑠璃』に登場する少年世一の象徴でもある青色で塗装された、動きつづけることによってのみ生きることができる、走るためのマシンは、世にあるあらゆる動かざるものを軽蔑し、その代表である八角形の楼台と真っ向から反目し、一見なにを考えているのかしごくわかりにくい新しい乗り手に、土地や家族の束縛から自由になれとたきつける。
 そして、ある日青年は、危ない橋を渡った結果としての大金を手に入れて故郷に舞い戻ってきた幼なじみを乗せ、「動く者」としてオートバイのアクセルをまわす。都会へ――人間の欲望と背徳、正気と狂気の渦巻く混沌の世界に向けて。

 本書の語り手でもある青いオートバイが、一生の大願として立てた「動く者」として生きること――「動く者」とはいったい何なのだろう、と私は考える。

「動く者」とは、「壊す者」と同義ではないだろうか。

 それは、人々が永遠不滅のものであると信じて疑わない、しかしその水面下では着実に疲弊しつつある既存の価値観を壊す者であり、唾棄すべき行為から目をそらし、怒ることを忘れ、ただ自分や家族の安息を求めて日々薄給で働きつづける人々の腐った性根を壊す者であり、保身や欲望のためにプライドをかなぐり捨ててまで、権力に対してこびへつらう者たちが一様に抱いている「金こそすべて」という精神を壊す者であり、そして何より、権力にものを言わせて民衆の総意を無視した計画に従わせようとする力の象徴そのものを壊す者である。そして、「壊す者」でありつづけるために必要なのは、怒りから生まれるエネルギーである。

 動く者に欠かせないのは、どこまでも我意を張り通すことだ、
 動く者は常に簡明な答を出し、決して言いにくそうに口ごもってはならない、
 動く者の精神の活動を支える原動力、それはあまりにも遣り切れない悲しみ、
 その悲しみの背後でふつふつと煮え滾っているのは、言葉では表せないほどの怒り。
 怒りこそが地水火風の力に並ぶエネルギーの源泉、
 怒りこそが事の真否を見抜くことができる唯一の力。

 口ばかりが達者で、現実に行動してみせることのできない輩の、何と多いことか。ことあるごとに自分の夢を他人に語る者が、実際にその夢を実現させたという例の、いかに少ないことか。詭弁を弄し、自分の身を危険にさらすことから逃げている人間たちは、いったい何のためにこの世に生を受けてきたのか、と問いつづける本書のオートバイに、どのような答を与えられるというのであろうか。

 いずれ、近いうちに何かが大きく変わるときが来る。そんな時代が来たときに本当に自分の生を生きることができるのは、金や権力を掌握している者ではなく、また宗教や自分だけが居心地のいい世界に頼りきって生きているものでもなく、常に月に先んじて走ることのできる「動く者」だけなのかもしれない。(1999.12.16)

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