【新評論】
『木々は八月に何をするのか』

レーナ・クルーン著/末延弘子訳 

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 私はもういい歳をした大人であるが、大人であるからといって、子どもだった頃とくらべて賢くなったのかと訊かれると、自信をもってそうだと答えることのできない自分がいることを知っている。たしかに、昔よりはいろいろなことを経験しているし、それなりに知識も増えた。物事の道理にも多少は通じているという自負もある。だが、それでもなお私はときに自分を見失い、大きな失敗を犯すこともあるし、経験や知識があってもなお正しい生き方をつらぬけない弱さをかかえてもいる。そんなとき、私は本当に大人になったのだろうか、という思いにとらわれる。なんだかふと気がついたら、もう大人と呼ばれる年齢になっていた、という感覚があるのだが、もし自分が大人であるという事実を思い知らせるものがあるとすれば、それはきっと「喪失感」だろう。

 明確に意識されるようなものではない。子どもの頃はたしかにそこにあると感じられたものが、知らないうちにそうでなくなったとき、漠然とした寂寥感はあるものの、おそらく私たちは何を失くしてしまったのかすら覚えていない。あいまいで、もやもやとした、それでいて何か懐かしさを感じさせるもの――大人としての自分は、思い出せないということは、きっとそれほど重要なことではないのだ、という割り切った判断をしてしまうし、じっさいそのとおりなのだろう。だが、もしあなたが大人になったことで失くしてしまったもの、置いてきてしまったものが何なのかを知りたいと思うのであれば、今回紹介する本書『木々は八月に何をするのか』を読んでみるといいだろう。

 本書は表題作をふくめた七つの作品を収めた短編集であるが、いずれの作品にも共通して言えることがあるとすれば、収録作品のひとつである『いっぷう変わった人びと』という、まんまそのままのタイトルに集約される。嬉しいことがあると、自分の意思とは無関係に体が浮き上がってしまうインカ、生まれつき自分の影をもたないハンノ、鏡に自分の姿が映らないアンテロ――そう、この作品集に登場する人たちは、いずれもどこか変わった特徴をもっていたり、奇妙な事柄に没頭していたり、あるいはちょっと現実離れした出来事に遭遇したりする。たとえば、表題作である『木々は八月に何をするのか』では、植物に魅入られたあげく異国風の草花で満ちた庭園をつくりあげた元薬剤師が登場するが、そんな彼のもとに訪れたひとりの青年――かつて庭園をメチャクチャにした張本人である青年――が、彼に導かれるままに案内された庭園でおこった顛末を描いたものである。

 はたして、青年がその庭園のなかで見たものは何だったのか? それはぜひ本書を読んでたしかめてもらいたいのだが、他にも『「人類の最善」あるいは「壮絶な娯楽」』に登場するテーマパークは、猛スピードで回転するメリーゴーラウンドや本物の猛獣が放し飼いにされているサファリなど、常に危険と隣りあわせという非常識なものであるし、『毎日が博物館』では、自分の生まれ故郷である村をまるまる買い取って、自分の人生を展示するためだけの博物館にしてしまった大富豪が登場する。いずれの出来事にしても、現実の世界ではちょっとありえそうもないことばかりであり、それゆえに本書はときに幻想めいた雰囲気をもつことになるのだが、ここでひとつ問題になってくるのは、そうした「いっぷう変わった」人々や事柄をとおして、その作品が読者に何を伝えようとしているのか、という点である。

 じっさい、物語のなかにおいて「いっぷう変わった」要素がどのような影響を物語全体におよぼすのかと考えたとき、じつはほとんど何の影響もおよぼさないことに気づく。それは、たしかに変わった出来事ではあるのだが、ただそれだけのことでしかないのだ。ただ、ひとつだけたしかなのは、本書の登場人物たちがその体験のなかで、何かに気がつくことになる、という点である。そしてそれは、気がついてしまえば何ということのない、よくよく考えてみればごくあたりまえのことであったりする。だが、それはたしかにあたりまえのことなのかもしれないが、私たちがそうしたことを、その瞬間まで忘れてしまっていたこともたしかなのだ。

「ここにはお母さんたちの痕跡なんか何一つ残ってないけど、それでも、家は私たちのことを忘れていないと思う。壁は耳を澄まし、屋根は目を澄ましている」

(『毎日が博物館』より)

 自分が死んでも後世に自分の存在したことの証を残しておきたい、という思いゆえに、『毎日が博物館』のライネル・リューサは馬鹿げた博物館を建てるが、彼と同じ村で生まれ、生家を博物館にされてしまった母親は、そんなことをするまでもなく、自分たちの過去はちゃんと残されているという事実に気がついている。『秘密のコーヒー 葦の物語』の少女ヴェーラは、彼女の秘密の場所である放置された桟橋で、誰からも忘れられていたはずの少年と出会い、『未確認生物学者とその生物たち』に登場するカルコ・ウトラは、どうしても自分の目でとらえることのできない奇妙な未確認生物を長年追い続けたあげく、ごくありふれたもののなかにこそ不思議があり、神秘があることに気がつく。本書における「いっぷう変わった」人々というのは、当人が意識するしないに関係なく、言うなれば道化を演じている者たちである。だが、けっして忘れてはならないのは、この壮大で多くの奇跡に満ちている世界のなかでは、私たち人間の存在はまさにちっぽけなものでしかないし、そのあまりにも短い生のなかでは、どんなに偉大な行為も、どんなあくどいことも、同じく道化めいて見えてしまう、ということである。しかしその道化めいた人々を描く著者の筆致は、けっして辛辣なものではなく、むしろある種のあたたかさに満ちている。

 子どもから大人になることによって、私たちはたしかに、何かを失くしてきたのかもしれない。だが、どれだけ歳を経てもあい変わらず愚かな失敗を繰り返してしまうという事実を考えたとき、じつは私たちが失くしてしまったものというのは、本当に消えうせてしまったわけではなく、ひょっとしたら以前と変わらずそこにあるにもかかわらず、私たちの目に見えなくなってしまっただけのことなのかもしれない。そういう意味では、本書はたしかにそのサブタイトルにもあるように「大人になっていない人たちへの七つの物語」なのだろう。だが、おそらく世の多くの大人たちは、きっと心のどこかで子どものままなのであり、そんなあたりまえのことに、あらためて気づかされる作品集でもある。(2006.05.10)

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