【新潮社】
『ミタカくんと私』/『ひょうたんから空』

銀色夏生著 



 よくネット上で自身の身辺日記を公開している方がいる。私自身はそうした日記をつけることはないし、仮につけていたとしてもネット上に公開するつもりもないのだが、なかには「よくこれほど多くのネタが出てくるものだ」と思えるほど面白い日記もあって、そうしたサイトに出会うたびに、あらためて公開日記というものの奥深さについて考えさせられることになる。

 他人がふだんどんな生活をしているのか、というのを考えるのは、じつはけっこう楽しい。公開日記の面白さのひとつは、そうした他人のプライベートを覗き見するかのような部分にあることはたしかだが、とくに面白い日記サイトを見ていると、彼らは自身の失敗や体験はもちろんのこと、それ以上に周囲に面白い人がいて、その人のことをネタにしている場合が多かったりする。日記とは、他ならぬ自身のことを書くためのものであるが、インターネットという、不特定多数の人間が見ることを前提とする公開日記において、それを面白く感じるかそうでないかの判断のひとつとして、日記の書き手がどれだけ多くの、日記のネタになりそうな人とのつながりを持っているか、という要素はかなり重要な位置をしめていると言うことができる。そして、人とのつながりのなかで、もっとも身近なものといえば、必然的にいっしょに暮らしている家族のことになってくる。

 たとえば、育児日記というのがある。ネット上で知り合った女性で、それまで日記などつけていなかった方が、出産をすることで育児日記をネットに公開する、あるいはそれまでもつけていた日記が、出産と同時に育児日記へと変化していく、という遍歴を何度か目にしたことがある。それは、赤ん坊という観察対象――それも、何をしでかすのか予測もつかない、興味深い対象を得ることが、母親として純粋に面白い、楽しいという気持ちを引き起こすからこそ、日記をつける気になるのである。逆に私のように何年もひとり暮らしをしていると、当然のことながら観察する対象は制限され、よほど日記を書くということを意識していないと、なかなかつづけられないものである。

 自分のことは、たいして面白いわけではない。だが自分の周囲にいる人たちはなかなか楽しいし、見ていて飽きることがない。そして時々は、本来の日記のように、自分のこと――自分が今何を考え、どのように感じているかを記録しておこう。今回紹介する本書『ミタカくんと私』および『ひょうたんから空』は、そんなどこかの平凡な日常をたんたんと描いた、ほのぼのさせられる作品であるが、それは本書の語り手である学生の岡田並子(ナミコ)が、自分の家族や幼稚園からの幼なじみであるミタカ君のことなどを、まるで公開日記のように書いていく、という形式によるところが大きい。

『ミタカくんと私』では、おもにミタカ君のことが中心となっている。彼は近くに住んでいる幼なじみなのだが、なぜかナミコの家に家族の一員のようになじんでいて、ナミコの家族も、彼自身もそれがあたりまえのように思ってすごしている。そして『ひょうたんから空』では、前回女をつくって家出していったはずの父親が戻ってくることから、その視点はナミコの家族のほうに比重が移ってくる。こんなふうに書いていくと、とても「平凡な日常」とは言いがたい出来事が起きているように思われるだろうが、じっさいにそのとおりである。

 家族でもないミタカ君が、まるで勝手しった家にいるかのようにお菓子を食べたり、本を読んだり、テレビを見たりしていて、父親は家出。母親はケロっと「離婚した」と言うし……。これがもし他の家族であれば、相当大きな問題になっているはずなのだが、本書のなかにおいては、まるでちょっとしたおしゃべりや、ごはんを食べたりするような、どこにでもある日常とまったく同レベルで書かれているために、深刻な出来事さえもまるでありきたりなことであるかのように流されていく。このあたりののんきさ、良い意味でのいい加減さ――さながら、どのような出来事でも受け入れていく包容力の強さは、じつは平凡なようでいて、どの家族でもあたりまえのようにもっているわけではない、非常に非凡な性質である。

 人は、みんな、ちょっとヘンでちょっとおもしろい。そのおもしろさを見ているだけでも、人生という時間はたりないくらいだ。

(『ひょうたんから空』より)

 ひとり暮らしを長くつづけていくとわかってくることだが、日々の生活がだんだんルーチンワークと化してきて、よほど意識して行動しないかぎり、個人的イベントを発生させられなくなってしまうものである。だが、もしそばに誰かひとりでもいてくれれば、そこにはこれまでにないイベントが発生しやすくなる。日常は平凡ではあるかもしれないが、それでも単調なものではなくなってくる。私が家族というものにあこがれることがあるとすれば、そうした部分である。もちろん、トラブルもそれだけ多くなるだろうし、けっして楽しいことばかりではなく、つらくて悲しいことも発生するだろう。だが、だからといってずっとひとりでいつづけていては、そこから何も発展していかなくなってしまう。

 ナミコの母親は、物語全体をとおしていろいろなことに挑戦している。それは、たとえばマツタケでプリンをつくるだとか、あるいはひょうたんを栽培するだとかいった、ちょっとユニークなことが多かったりするのだが、少なくとも彼女は「そんなことをして何になる」といった発想をすることはない。父親は不倫をしたはいいが、その相手に捨てられて家に戻ってくる。そしてナミコは、そんな父親の姿を見ながらも、それでも年相応の女の子らしく、誰かと恋におちいったりする。本書を読んでいてわかるのは、ごく平凡な日常を描きながら、そのなかで常に人と人とのつながりを維持していこうという姿勢である。だからこそ、一度家を捨てた父親を、家族は最終的には受け入れるし、近所に住んでいるとはいえ、あかの他人であるはずのミタカ君も受け入れる。それは、ミタカ君だからということではなく、その気になれば本書に登場する人たち誰に対してもそうなのだろう。

 知らない人間と接するのには勇気がいる。世の中はけっしていい人間ばかりではなく、なかには極悪人もいることを、人は誰でも知っているからだ。だが、おそらく本書のナミコの家族たちは、たとえそのことで傷つけられることになったとしても、変わらず他人をノーテンキに受け入れていくのだろう。それはもはや、いい加減であるというのではなく、傷つくことを怖れない強さだと言ってもいい。そしてそれは本来、日本の家族のなかにあったはずのものでもある。もし、本書を読んでこの家族のことが好きになったというのであれば、それはきっと、人が本来あるべき姿をごく自然な形で実現していることから来る好感であるに違いない。(2005.09.20)

ホームへ